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「人間回復の橋」 今も心に ハンセン病療養所のある瀬戸内市・長島と本州結び35年 10歳から暮らす石田さん

隔離政策から解放

 この橋を「人間回復の橋」と人は呼ぶ。ハンセン病患者の隔離政策は誤りだった―。その象徴でもある青いアーチの邑久長島大橋。国立療養所の長島愛生園と邑久光明園のある瀬戸内市の長島と本州を結び、9日で35年を迎えた。10歳の頃から愛生園で暮らす石田雅男さん(86)は、隔離からの解放を訴えて架橋運動に奔走した一人だ。(山本真帆)

 「今でも橋は自分の心の中にどんと据わっとる」。石田さんは静かに語った。

 兵庫県明石市で生まれた。10歳で発症して1週間後には愛生園に連れて来られた。両親とはほとんど会えない。7歳年上の兄も先に入所していたが、その兄は26歳で亡くなった。訃報は家族に知らせることもなく、島の中で火葬された。骨は今も長島の納骨堂で眠り、兄は島に入ってから海峡を越えられなかった。

 国の法律に基づく隔離政策の真っただ中。長島と本州の間はわずか30メートルだが、長く入所者と社会を隔絶してきた。感染した人の自由は奪われ、入所者の中には泳いで逃れようと潮流の速い海峡に飛び込み、命を落とした人もいる。

 「架橋は私たち入所者の長年の悲願だったんよ」。架橋計画は1969年に持ち上がった。石田さんも愛生園の自治会役員として運動にのめり込んだが、地域社会の壁は高かった。

 岡山県庁に陳情に向かうためのバスの乗車を拒否されたこともあった。石田さんは「橋を架けなくても、治る病気なら自分の家に帰ればいい」など心ない言葉を耳にしたことも。「一番理解してほしい人たちからの差別や偏見はきつかったなあ」と石田さんは言う。

 それでも当時、厚生省への陳情にも2回訪れた。80年の園田直・厚生大臣との面会は今でも忘れられない。「園田大臣から『隔離をする必要のない証しとして橋を架けましょう』と言われた時は、大きな前進だったな」と振り返る。

 しかし、架橋の実現までにはその後さらに8年かかった。

(2023年5月10日朝刊掲載)

島に人呼ぶ「人権の橋」に 架橋35年 長島愛生園の石田さん 隔絶の歴史発信 広がる交流の輪

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