島に人呼ぶ「人権の橋」に 架橋35年 長島愛生園の石田さん 隔絶の歴史発信 広がる交流の輪
23年5月10日
遅々として進まなかった邑久長島大橋の架橋がようやく実現したのは、計画から19年たった1988年のことだった。
瀬戸内市の国立ハンセン病療養所の長島愛生園に暮らす石田雅男さん(86)は、当時のことを話す時、まなざしが柔らかくなる。「橋が架かったのは、96年にらい予防法が廃止された時よりもうれしかったな。橋は目に見えるでしょ。社会の人たちに怖い病気ではないことを分かってもらえると思ったんよね」
それまでの道のりは試練続きだった。10歳で入所した石田さん。成人すると「社会に出なければ」との思いが強まった。療養所の外で働きたくて30歳の時に運転免許を取り、大阪の運送会社に勤めた。働く楽しさを知ったものの、自身の病気のことを隠し続けるつらさも身に染みた。「自分の過去はこうだと裸になりきることができなくて、外で生きていく資格がないと思った」。体を悪くしたこともあり、愛生園に戻った。
ハンセン病にかかった人が過去を隠さなくても生きていける道をつくらないといけない―。島の仲間と精を出したのが架橋運動だった。
架橋の1カ月後、唯一の家族の姉を訪ねた。当時、姉も故郷を追われていた。身内から患者が出たためだった。家族もまた被害者だった。病気になったことさえ知らされていなかった親戚は「つらい思いをしたな」と手をさすってくれた。「このときは温かいものを感じたなあ」
太平洋戦争中に2千人を超した愛生園の入所者の数はことし2月、100人を下回った。光明園と合わせた入所者数は4月末時点で計157人。平均年齢は88歳を超え、高齢化が進む。「語り部」として活動する入所者は、石田さんともう1人の2人だけになった。
一方、石田さんたちが紡いできた交流の輪は広がる。隔離の実態を紹介する愛生園歴史館の整備や、世界遺産の登録を目指す動きも追い風に、多い年は1万2千人が橋を渡ってくる。
「僕らが一人もいなくなっても島につながるこの橋は残る。人間回復の橋から人権の橋への新たな出発に向かうんではないかな」。戦争や感染症などで、世界中で人権が脅かされる事態は続いている。だからこそ、島に人を呼ぶ橋の役割はいっそう増していると思う。(山本真帆)
ハンセン病
「らい菌」による感染症で、手足などの末梢(まっしょう)神経がまひし、感覚がなくなったり、体の一部が変形したりして障害が残ることもあるが、感染力や発病力は極めて弱い。日本では1931年に「癩(らい)予防法」が制定され、強制的な隔離政策が進められた。長島愛生園は全国初の国立ハンセン病療養所として30年に開園、38年には邑久光明園ができた。特効薬が開発された後にできた53年の「らい予防法」でも隔離政策は継続され、96年の廃止まで続いた。
(2023年5月10日朝刊掲載)
「人間回復の橋」 今も心に ハンセン病療養所のある瀬戸内市・長島と本州結び35年 10歳から暮らす石田さん
瀬戸内市の国立ハンセン病療養所の長島愛生園に暮らす石田雅男さん(86)は、当時のことを話す時、まなざしが柔らかくなる。「橋が架かったのは、96年にらい予防法が廃止された時よりもうれしかったな。橋は目に見えるでしょ。社会の人たちに怖い病気ではないことを分かってもらえると思ったんよね」
それまでの道のりは試練続きだった。10歳で入所した石田さん。成人すると「社会に出なければ」との思いが強まった。療養所の外で働きたくて30歳の時に運転免許を取り、大阪の運送会社に勤めた。働く楽しさを知ったものの、自身の病気のことを隠し続けるつらさも身に染みた。「自分の過去はこうだと裸になりきることができなくて、外で生きていく資格がないと思った」。体を悪くしたこともあり、愛生園に戻った。
ハンセン病にかかった人が過去を隠さなくても生きていける道をつくらないといけない―。島の仲間と精を出したのが架橋運動だった。
架橋の1カ月後、唯一の家族の姉を訪ねた。当時、姉も故郷を追われていた。身内から患者が出たためだった。家族もまた被害者だった。病気になったことさえ知らされていなかった親戚は「つらい思いをしたな」と手をさすってくれた。「このときは温かいものを感じたなあ」
太平洋戦争中に2千人を超した愛生園の入所者の数はことし2月、100人を下回った。光明園と合わせた入所者数は4月末時点で計157人。平均年齢は88歳を超え、高齢化が進む。「語り部」として活動する入所者は、石田さんともう1人の2人だけになった。
一方、石田さんたちが紡いできた交流の輪は広がる。隔離の実態を紹介する愛生園歴史館の整備や、世界遺産の登録を目指す動きも追い風に、多い年は1万2千人が橋を渡ってくる。
「僕らが一人もいなくなっても島につながるこの橋は残る。人間回復の橋から人権の橋への新たな出発に向かうんではないかな」。戦争や感染症などで、世界中で人権が脅かされる事態は続いている。だからこそ、島に人を呼ぶ橋の役割はいっそう増していると思う。(山本真帆)
ハンセン病
「らい菌」による感染症で、手足などの末梢(まっしょう)神経がまひし、感覚がなくなったり、体の一部が変形したりして障害が残ることもあるが、感染力や発病力は極めて弱い。日本では1931年に「癩(らい)予防法」が制定され、強制的な隔離政策が進められた。長島愛生園は全国初の国立ハンセン病療養所として30年に開園、38年には邑久光明園ができた。特効薬が開発された後にできた53年の「らい予防法」でも隔離政策は継続され、96年の廃止まで続いた。
(2023年5月10日朝刊掲載)
「人間回復の橋」 今も心に ハンセン病療養所のある瀬戸内市・長島と本州結び35年 10歳から暮らす石田さん