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連載・特集

半世紀前 草の根の情熱 ヒロシマを知らせる委員会 現存資料から

 海外への移動も通信も今ほど簡単ではなかった半世紀前、核兵器が人間にもたらす悲惨を核大国の米市民に伝えようと、被爆地広島から原爆文献や資料を届けたグループがあった。「ヒロシマを知らせる委員会(HAC)」。1973年の発足から15年間、草の根から世界に向け活動した。HAC解散後に活動を引き継いだNPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(WFC、広島市西区)や関係者の元に残る資料からは、長く忘れ去られていた活動の息遣いが伝わってくる。(森田裕美)

メンバー 平和団体や文化人「オール広島」

活動 原爆文献 米の市民に届ける

 73年10月23日、WFC創設者で米国の平和運動家バーバラ・レイノルズが久々に広島の土を踏んだ。自ら提唱し、米オハイオ州ウィルミントン大で計画が進む「広島・長崎記念文庫」への協力を要請するためだ。当時の学長ロバート・ヘンショウが広島市長山田節男に宛てた書簡を携えて。WFC初代理事長の原田東岷ら友人が広島駅に出迎えたと同24日付本紙は伝える。

 この要請に原田はすぐ動いたようだ。<広島としては米国のみならず、諸外国への働きかけも含め、この際委員会組織を結成して、積極的に取り組む―>。平和団体や文化人に呼びかけた文書がWFCに残る。

 同年11月発足したHACは、事務局を広島平和文化センター内に置き、原田が委員長に就く。委員には、牧師の谷本清、詩人の大原三八雄、広島大教授の今堀誠二、市渉外課長の小倉馨…。当時の被爆地のキーパーソンともいえる、そうそうたる顔ぶれだ。

 WFCや関係先では、バーバラが同文庫の構想を翻訳したメモや、米国のバーバラとHACメンバーらが交わした書簡、事業計画書や帳簿など大量の資料が見つかった。現在、WFCメンバーらが整理を進めている。手書きの記録などから、ヒロシマを伝えようと知恵を絞った市民の情熱がにじむ。

 HACはまず、原爆文献を選定して送る作業に取りかかる。広島平和文化センターの「20年史」などによると発足以来520点を同文庫に届けた。うち少なくとも109冊に添えたとみられる要約文とその英訳が残る。翻訳を担ったのはWFCメンバーをはじめ趣旨に賛同する市民だった。

 米国に送ったのは、物にとどまらない。82年、事務を担当していた被爆者の松原美代子を「米国横断平和キャラバン」に派遣。松原はバーバラらと全米を回り、「市民が描いた原爆の絵」の展示や証言活動を通じ、被爆の実情を訴えた。

 国内での活動も怠らなかった。記憶を風化させまいと原爆文献を要約し、「ヒロシマを語る十冊の本」など2冊の書籍を編集・刊行。掲載許可を求めた井伏鱒二や大江健三郎ら著者からの返信はがきも残る。

 さらに原爆を伝える3種類のスライドを制作し、他言語に訳して販売や貸し出しもして広めたようだ。残された貸出申請書からは、その広がりも読み取れる。

 HACはしかし、高齢で体調を崩した原田の後任が決まらないまま88年に解散。関係者の多くは亡くなった。WFC理事長の立花志瑞雄は「眠っていた資料をひもとくと『オール広島』で被爆の実相を伝えようとした当時の様子がよく分かる。その尊い熱意を、今こそ思い返したい」と話す。(文中敬称略)

バーバラ・レイノルズ
 原爆傷害調査委員会(ABCC、現・放射線影響研究所)研究員として赴任した夫と共に1951年から広島で暮らし、原爆被害に胸を痛めて反核平和運動に身を投じる。62、64年、私財を投じて欧米の核保有国などを被爆者たちと「平和巡礼」し、原爆被害の実情を伝える。65年、広島に平和交流拠点のワールド・フレンドシップ・センター(WFC)設立。69年に米国に帰った後も被爆者に寄り添い運動を続けた。90年に74歳で死去。

原田東岷
 軍医として終戦を迎え、広島に帰った1946年以降、被爆者医療に尽くす。55年、顔などに大やけどを負った女性被爆者の渡米治療に付き添うとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。65年、WFC初代理事長に就任。99年、87歳で死去。

(2023年7月24日朝刊掲載)

「ヒロシマを証言」思案の軌跡 故松原さんとバーバラさん 日米往復書簡見つかる

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