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連載・特集

対談特集 KOJI KIKKAWA × TAKAHIRO ARAI

吉川晃司 40周年 広島に恩返 × 新井貴浩 戦いながら強くなる

 広島の誇る球界のレジェンドと音楽界のカリスマが、初めて膝を突き合わせた。広島東洋カープの新井貴浩監督と、ミュージシャンで俳優の吉川晃司さんが「広島を熱く、元気に」をテーマに対談。カープ、音楽、ファンへの思いや平和への願いなどを語り合った。(聞き手は高本孝編集局長)

カープが頑張ってくれれば、みんな頑張れる

かっこよさと強さが一緒にあるところが憧れ

  ―お二人は話をされるのは初めてですか。
 吉川 始球式でマツダスタジアムに伺った時に、まだ現役でいらっしゃった。2018年の日本シリーズですね。

  ―新井さんは吉川さんにどんなイメージを持たれていましたか。
 新井 同じ広島生まれで広島育ちですから、小さい頃からのスーパースターですね。吉川さんがデビューされた時は、小学生でした。「ザ・ベストテン」とか見てましたね。かっこよさと強さが一緒にあるところが憧れでした。

  ―吉川さんは、新井監督のドキュメンタリー番組のナレーションを担当されたということですが、昨季をどのように見ていましたか。
 吉川 長いこと苦労をされとるし、挫折もいろいろ経験されとる。それがちゃんと選手に伝わっとる。それを若い選手が受けて、本気のエネルギーが倍増されている感じが、ひしひしと伝わってきたね。野球評論家の方々はみんな最下位にしとったけどね。

 新井 6位が一番多かったですかね。自分自身はそんなチームじゃない、絶対にやれると思っていたので、悔しかった。神宮球場での開幕戦前のミーティングで鼓舞しました。(順位予想はどうあれ)俺が知っているお前たちの力は、そんなもんじゃないって。

 吉川 みんなが一丸となってね、新井さんが愛と情熱で導かれた感じがしましたよ。

 新井 コーチを経験せず、いきなり監督でしたから、すごく考えました。現役時代、一緒にプレーした選手に、どういう感覚で接したらいいのか。答えが出なかったので、素でがむしゃらにやろうと。ついうれしくて、わっとやってしまって、これでよかったのかとは思います。

 吉川 よかったに決まっとるじゃないですか。

  ―新型コロナウイルス禍で、スポーツも音楽も制限されてきましたが、昨年、ようやく以前のように戻りました。
 新井 コロナ禍で入団した選手は満員のマツダスタジアムを知らなかったですからね。お客さんの声援は選手に力を与えてくれました。特にクライマックスシリーズの戦いはそうでした。

  ―吉川さんはどんな思いでコロナ禍を過ごされていましたか。
 吉川 わしはいつもコンサートで「笑顔の再会をまた」と言いながら別れるんじゃが、それが全ての思いですかね。普段の生活でため込んだストレスを吐き出して、元気になって帰ってもらう。お客さんの力、お客さんがくれたもの以上のものを返さんと。それが自分の誇りでもあるし、プレッシャーにもなる。もろうたものを返せんかったら、こっちの負けじゃと思ってやっとりますから。だから、わしは無観客のコンサートをやらんかったんですよ。野球は無観客でやりましたよね。

 新井 コロナ期間中は解説者だったんですけど、(11年の)東日本大震災の時には、オープン戦ではあったんですけど、無観客の試合を経験しました。誰もいない中で野球をして、選手というか自分たちの存在価値が分からなくなりました。

  ―吉川さんは東日本大震災後、現地でのボランティア活動やCOMPLEXを復活させてのチャリティーライブもされました。野球がある幸せ、音楽がある幸せ、いろんなことを考えさせられた出来事だったですね。
 吉川 人生観が変わったんですよ。被災された方々が安心していられる場所を得られるようになる前に、エンターテインメントができることはないんじゃないかと思いました。少しずつ復興へと向かうスイッチが入ったときに、僕らが担えるものが、また復活してきたと思うんですよね。被害を免れた者が、被害に遭った人々を助けることは当然のことですから。

  ―広島に生まれ育った者として、スポーツや音楽を通して、平和であること、戦争がないことの大切さを訴えていく使命を感じられていますか。
 吉川 カープは特殊な球団でしょ。原爆を落とされて、焼け野原になったところから、よみがえってきた。復興のシンボルなんだよね。他の球団と比べると、平和とのつながりが全然違うと、わしはそう思ってきた。新井さんがはだしのゲンの「麦のように生きろ」という言葉を大切にしていることを聞いて、新井さんの世代の方がそういう思いを持っていらっしゃるというのは、それは素晴らしいことじゃと思う。

 新井 小学2年の時に、担任の先生に「はだしのゲンを読みなさい」と言われた。図書館に全巻そろっていて、最初は見るのがすごく怖かったんですけど、広島で生まれた者としては、怖いけど目を背けてはいけないという使命感みたいなものがあった。それからずっと読んでました。

  ―はだしのゲンの作者である中沢啓治さんと交流があったと聞きます。
 新井 僕が阪神にいたときに、入院されている中沢先生のお見舞いに行ったんですけど、そのとき、言われた言葉が忘れられないんですよ。「お前はどこに行っても、広島の人間だから、わしは応援しとるで」。心に刺さりました。平和教育もずっと受けてきて、原爆資料館は何十回も行きました。カープと平和、戦争。小さな頃から身近にあった。体に染みついてますね。

  ―お二人の人生は、さまざまな逆境を乗り越えてこられた軌跡のようにも感じます。広島で生まれ育った経験がハングリー精神に深く関わっているのではないですか。
 吉川 逆境好きというのはある。そのほうが居心地がいい。そういう生きざまを選んできた。(逆境ばかりという意味では)カープも同じだったよね。優勝はもちろんだけど、いい試合を見せてくれるだけで、みんな元気になる。平和への祈りとか思いにもつながっとるんじゃないかと思う。(監督の)プレッシャーはあるでしょう。

 新井 もちろん、あります。僕は一度カープを出てますんで。球団から戻ってこいと言われたときに、すごく悩んだんです。戻ってきてはいけないんじゃないかと思って。決意したときには、応援してもらえなくてもしょうがない。カープのために頑張ろうと戻ってきた。復帰1打席目は代打だったんですけど、すさまじい声援をいただいて感動しました。

 吉川 わしも見とった。すごかったよね。本人はやじでもくるんじゃないかと思うてたの。

 新井 ベンチ裏で準備している時に、やじられたらどうしようとか、応援してもらえず、しーんとなったらどうしようとか、すごくドキドキしていた。あの感動はそれ以上のものをファンに返さなくてはならない。喜ばせなくてはならないと本気で思わせてくれた。それは監督になった今も変わらないです。

  ―今年は吉川さんのデビュー40周年、カープは最後の日本一から40年。節目の年となります。
 新井 今年も戦いながら強くならないといけない。それができると思っています。(西川)龍馬がオリックスに移籍したんですけど、枠が一つ空きましたんで、若手を競争させながら、チーム力を上げ、阪神にぶつかっていきたいです。

 吉川 40周年はちゃんとしようと思っとるんですけど、実は来年が還暦なんですよ。還暦といえば赤じゃないですか。来年は広島に恩返しする年にしたいと考えとるんです。広島出身のアーティストって多いじゃないですか。でも横のつながりがないんですよ。何でか言うと、良くも悪くも自我が強い。いい意味で群れない。それは素晴らしいことなんじゃけど。

  ―2024年をどんなふうに駆け抜けますか。
 吉川 やたらと最近ミュージシャンたちが亡くなっちゃうんで、「やりたいと思ったことは考えるな」と自分では思ってます。やれ、やったあと考えろ。わしも心臓を手術しとるしね。

 新井 私も大事にしたいのは「走りながら考えろ」。立ち止まって考えるな、ですね。

 吉川 悩むときは動いて悩んだほうが絶対にいい。「人生の折り返し」とか言うけど、折り返してどうするんですか。そのまま真っすぐいけばいい。カープが頑張ってくれれば、それでみんな頑張れる。カープ次第です。新井さんに懸かってるんです。

 新井 ありがとうございます。頑張ります。

 吉川 優勝までやめられませんけえね。

きっかわ・こうじ
 1965年8月18日生まれ。広島県府中町出身。府中小から修道中・高に進み、水球に打ち込む。84年、映画「すかんぴんウォーク」と、その主題歌「モニカ」でデビュー。88年、ギタリスト布袋寅泰と「COMPLEX」を結成。その後、ソロのロックアーティストとして活動し、近年は映画やドラマなど俳優としても高い評価を得る。

あらい・たかひろ
 1977年1月30日生まれ。広島市西区出身。広島工高、駒大を経て、99年ドラフト6位で広島に入団。2008~14年は阪神でプレーした。15年に広島に復帰し、16年にチームを25年ぶりのリーグ制覇に導き、セ・リーグMVPを獲得した。2383試合で2203安打、319本塁打。18年限りで引退。23年から広島の監督を務める。

紙面編集・山田英和

(2024年1月1日朝刊掲載)

カープ新井監督と吉川さん 新春対談 広島を元気に 野球・音楽 古里へ思い

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