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連載・特集

ヒロシマ伝える 街角の写真 ユネスコ「世界の記憶」候補に

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」で、広島市と中国新聞社など報道機関5社が2025年の国際登録を目指す「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」。写真の一部は市内の撮影場所近くにある「原爆被災説明板」に使われている。焦土から復興し、再開発で姿を変えゆく街の今と、その原点の1945年。80年近い時を超え、「あの日」の記憶をつなぎ留める街角の写真を紹介する。(編集委員・水川恭輔、新山京子)

❶御幸橋西詰め

「苦しむ声 聞こえてきそう…」

 爆心地から南東に約2・2キロの御幸橋西詰め(中区)。市民が行き交う歩道沿いに、米軍により原爆が投下された1945年8月6日の市民の姿を伝える原爆被災説明板が立つ。救護を受ける女学生、赤ん坊を抱える女性…。多くの被爆者たちが避難してきたまさにその時、その場所で元中国新聞社カメラマンの故松重美人(よしと)さんが写真に記録していた。

 「苦しむ声が聞こえてきそう…」。昨年末、オーストラリアから友人3人と旅行で訪れた看護師のベサニー・スタンリーさん(24)は写真を見つめてつぶやいた。被爆や復興をテーマに約2時間をかけて市内を回る自転車ツアーで立ち寄り、広島原爆の被害写真を見るのは初めてだった。「あまりにむごい。原爆を市民の頭上で使ったらどうなるのか、重い事実を突きつけられた」

 ツアーは観光ガイドたちが手掛ける「sokoiko(ソコイコ)!」。2017年の開始当初から、御幸橋西詰めをルートに入れている。「言葉だけでは伝わらない原爆の恐ろしさを、この写真が大きなインパクトで教えてくれる」とガイドの福原信太郎さん(53)は狙いを語る。ツアー参加者はこの写真を前にすると和やかな雰囲気を変え、険しい表情を見せるという。

 撮影者の松重さんは自らも被爆しながら、8月6日に5枚を撮った。原爆投下当日の市民の惨状を捉えた写真記録はほかになく、いずれも「世界の記憶」に申請されている。「登録されれば、特に海外の多くの人の目に触れ、平和の大切さを感じてもらえるのではないか」。福原さんは期待している。

❷尾長説教所

爆心地から3.4キロ 強烈爆風

 大量の瓦が吹き飛び、屋根の骨組みの木材はむき出しだ。広島市東区の法明寺にある原爆被災説明板は、写真家の故菊池俊吉さんが被爆約2カ月後の1945年10月中旬に写した浄土真宗の尾長説教所の写真を掲げている。爆心地から東に約3・4キロ離れており、原爆の強烈な爆風がどれだけ広範囲に被害を及ぼしたかを浮き彫りにする。

 住職の原田真澄さん(65)によると、説教所は江戸期の終わりの開設で、法話の聴聞などに使っていた。被爆時の建物は大正期に建築。原爆で無残な姿になったが、地元の門徒たちが浄財を出し合って再建した。戦後の物資不足の中、説教所の柱の一部を現在の本堂に再利用したという。48年に原田さんの父の故法純さんが赴任。法明寺となり、住職を務めた。

 原田さんは、かつて浄土真宗本願寺派が本山・西本願寺(京都市)で戦争関連の展示をした際、被災説明板を撮影した写真を提供した。「写真を見ると、原爆被害のすさまじさを感じるとともに、これだけの惨状から復興に力を尽くした門徒たちの熱意に心を打たれます」と話す。

❸福屋百貨店

「白亜の殿堂」一変

 広島都心の八丁堀地区(中区)には、商店やオフィスが入るビルが立ち並ぶ。その一角に、広島県警察部の写真班員だった故川本俊雄さんが1945年9月末に写した写真入りの原爆被災説明板がたたずむ。

 一帯は戦前から市内有数の繁華街だった。写真に写る建物の一つは福屋百貨店。38年に鉄筋地上8階、地下2階で完成すると、優美な外観から「白亜の殿堂」と称され、買い物客でにぎわった。ただ、戦争の激化とともに軍や国の機関などが売り場の大半を使用し、百貨店の機能は失われた。被爆直後に火災が起きて内部を焼失したが、焼け残った後は多くの被爆者を収容した。

 被爆した建物は、福屋八丁堀本店として現存している。本店1階には広島と福屋の歴史を伝える展示スペースがあり、元福屋社員の故林寿麿(かずま)さんが被爆後の福屋や周辺の焼け跡を撮影した写真が展示されている。林さんの写真もまた「世界の記憶」に申請されている。

25年に次回登録

 「世界の記憶」は英語で「メモリー・オブ・ザ・ワールド」と表し、ユネスコが1992年に始めた事業の総称を指す。記録遺産(ドキュメンタリー・ヘリテッジ)の保存とすべての人へのアクセスの提供、関心の喚起を目的としている。

 記録遺産を「コミュニティーや文化、国、または人類全般に重要かつ不朽の価値を持ち、その劣化や損失が甚大な(文化的)貧困を招くもの」と定義。文書や写真、絵など幅広い記録媒体を対象にしている。

 国際登録制度を95年に始め、2023年6月時点で494件を登録している。日本からは「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」「朝鮮通信使に関する記録」など8件。核関係では「国際的反核運動『ネバダ・セミパラチンスク』に関する視聴覚資料(カザフスタン)」「チェルノブイリ事故に関連する記録遺産(ウクライナ)」がある。

 新規登録は2年ごとで次回は25年。1カ国2件まで申請できる。日本政府は有識者12人でつくる審査委員会の意見を踏まえ、「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」「増上寺が所蔵する三種の仏教聖典叢書(そうしょ)」を選んだ。

希少性など審査

 ユネスコは所定の申請用紙に計36の記入欄を設け、多様な基準で申請資料の重要性を尋ねている。「歴史的重要性」「希少性」のほか、「社会、コミュニティー、精神的な重要性」や「ジェンダー平等」への貢献といった現代における役割も問うている。

 同時に「世界の記憶」の事業指針は「関心は一次資料の保存とアクセスであり、その解釈や歴史論争の解決ではない」と強調。申請資料のデジタル化の有無、世界の市民が利用しやすいかどうかのアクセス容易性を重視する。

 今後、資料保存などの専門家でつくる登録小委員会が受領可能と判断すれば、登録基準を満たすかどうかを1次審査。登録や却下、再提出などの措置を国際諮問委に勧告する。続いて国際諮問委も審査し、同様に措置内容を判断。この勧告を踏まえ、加盟58カ国で構成するユネスコ執行委が2025年春に登録の可否を決める見通しだ。

≪広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像≫

 被爆した市民や報道カメラマンたち27人・2団体が、1945年8月6日から12月末までに広島市内や近郊で撮影した原爆写真1532点と動画2点で構成している。地上から見たきのこ雲や大やけどを負った被爆者、壊滅した市中心部、放射線による急性障害などを記録。保存や活用に携わってきた広島市、中国新聞社、朝日新聞社、毎日新聞社、中国放送、NHKが共同申請した。

原爆被災説明板
 広島市が1980年度から99年度までに市内一円45カ所に設置した。主に付近で撮影された被爆の惨禍を伝える写真を陶板に転写して御影石に取り付け、被害状況の説明文を添えている。市が79年度に設けた「原爆遺跡選定会議」が設置場所などを検討した。被爆者医療に尽力した外科医の故原田東岷さんが座長に就き、原爆白書づくり運動を進めた歴史学者の故今堀誠二さんたちが委員を務めた。

紙面編集・目賀知義

(2024年1月5日朝刊掲載)

「世界の記憶」審査本格化へ 登録目指す広島原爆写真

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