刻む記憶 被爆建物 <1> 旧陸軍被服支廠
24年7月22日
戦争の遺物 平和の象徴に
巨大な赤れんがの倉庫がL字形に4棟並ぶ。広島市南区にある最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」。近くで生まれ育った被爆者の切明千枝子さん(94)=安佐南区=は、人生を共に歩んできた。
記憶は今も鮮やかだ。「赤れんがの前は広い原っぱで、縦横無尽にトロッコの線路が通っていてね」。母親が廠内で経理担当として働いていて、敷地内の幼稚園に通った。「ブランコやジャングルジム、シーソーもあって至れり尽くせり」
地元の広島県立広島第二高等女学校(現皆実高)に進むと、学徒動員先の一つが被服支廠になった。新しい軍服の糸くずを取ったりボタンを付けたりしていたが、戦争末期には使い古しの軍服を洗濯し、繕った。「古着をもう一度着せる状態で日本は戦争に勝てるんでしょうか」。引率の教員に尋ねると厳しく𠮟られ、口をつぐんだ。
戦時下の日常は、あの日終わった。比治山橋の東詰め(現南区)で被爆した。学校に戻ると、建物疎開作業に出て大やけどをした下級生を目の当たりにした。自宅でけがをして被服支廠の倉庫に運ばれた祖母を捜しに行くと、辺りは血や汚物の臭いが充満していた。
無邪気な思い出も、非人間的な惨禍も刻み込まれた被服支廠。「戦争の遺物だが、平和のために生きる建物。大事に残して反戦のシンボルにしてほしい」。全ての被爆建物の保存・活用を願い、その記憶を語っている。
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被爆者が老いる中、「物言わぬ証人」として被爆建物の存在感は増す。今年1月に被服支廠が国重要文化財(重文)に、2月に6件からなる「広島原爆遺跡」が国史跡に指定された。巡り来た被爆79年の夏に、建物一つ一つに宿る記憶を紡ぐ。(山下美波)
旧陸軍被服支廠
旧陸軍の軍服や軍靴を作っていた施設。1914年の完成で爆心地の南東2・7キロにあり、原爆投下後に臨時救護所となった。13棟のうち4棟が残り、現在は広島県が1~3号棟、国が4号棟を所有。県は1号棟を平和学習、2~4号棟を交流促進や宿泊、観光の拠点とする活用イメージを示している。
(2024年7月21日朝刊掲載)
刻む記憶 被爆建物 <1> 学徒動員 まさに軍隊生活