刻む記憶 被爆建物 <1> 学徒動員 まさに軍隊生活
24年7月21日
広島市で生まれ育った森武徳さん(94)=熊本市=は、広島陸軍被服支廠(ししょう)(現南区)に学徒動員され、1年2カ月を過ごした。「軍隊生活という印象が強いですね。今思うと、とんでもない」。青春のただ中に国の戦争を支えさせられ、あの日、そこで原爆に遭った。
通っていた広島高等師範学校付属中(現広島大付属中)は自由な校風だった。米国の音楽を聴かせてもらい、歴史の試験で「初期の天皇は史実ではなく神話」と書くと高得点を付けられた。ただ、1944年6月に被服支廠へ動員されると、生活は一変する。輸送班に所属し、軍の荷物を被服支廠から中国山地の施設へ運ぶのが主な仕事だった。
「スト」で反抗も
休みは月数回。勉強どころではない。身体検査が毎日あり、被服支廠の製品を持ち出そうとした生徒2人は処分され転校した。「軍隊の言うことが一番。自由だった学校生活と真逆で抵抗感があった」。生徒たちの不満は募り、45年春、更衣室に立てこもって作業に行かない「ストライキ」をした。代表して将校と話し、身体検査は中止された。
4年生になっていた45年8月6日朝、いつものように同級生とトラックの荷台で出発を待っている時に被爆した。「何が起きたのかと」。慌てて地面に伏せた後、防空壕(ごう)へ。顔と両手をやけどし、恐る恐る外へ出て医務室に行くと、既に何人ものけが人が来ていて、治療を受けられなかった。
空だった倉庫は重傷者でいっぱいに。広島一中(現国泰寺高)の生徒を見つけ、教員だった父親の消息を尋ねようと声をかけたが、反応はなかった。遺体が山積みになった倉庫もあった。背を向けると「遺体の目が自分を見ているよう」に思え体が重くなった。そばの空き地で夜を過ごし、「ゴオー」と炎が燃え上がる音が今も耳に残る。
付属中を卒業後、父親の故郷の熊本へ。第五高等学校(現熊本大)を出て弁護士事務所で働き、司法書士の資格を得た。動員生活で培った反骨精神から、ダム建設に反対する行政訴訟に力を尽くした。
先細りの同窓会
長く付属中「東組」の同窓会に参加してきたが、直近の2019年に集まったのはわずか3人。その一人で市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」を引っ張った中西巌さんも昨夏に93歳で逝った。「建物を壊すと被爆の痕跡が消える」。多感な時期を過ごし、戦争の痛苦を刻む被服支廠への思い入れは強い。
やはり広島県立広島第二高等女学校(現皆実高)在学中に学徒動員され、中西さんから懇談会代表を引き継いだ被爆者の切明千枝子さん(94)=安佐南区=は言う。「戦争は武器や軍服、食料など後方支援の施設がないと成り立たない。広島は原爆が投下される前は加害の街だった」
二度と戦争を繰り返さないため、軍都広島としての反省を込めて残さないといけない―。森さんや切明さんの記憶が導く被服支廠の存在意義はそこにある。(山下美波)
(2024年7月21日朝刊掲載)
刻む記憶 被爆建物 <1> 旧陸軍被服支廠
通っていた広島高等師範学校付属中(現広島大付属中)は自由な校風だった。米国の音楽を聴かせてもらい、歴史の試験で「初期の天皇は史実ではなく神話」と書くと高得点を付けられた。ただ、1944年6月に被服支廠へ動員されると、生活は一変する。輸送班に所属し、軍の荷物を被服支廠から中国山地の施設へ運ぶのが主な仕事だった。
「スト」で反抗も
休みは月数回。勉強どころではない。身体検査が毎日あり、被服支廠の製品を持ち出そうとした生徒2人は処分され転校した。「軍隊の言うことが一番。自由だった学校生活と真逆で抵抗感があった」。生徒たちの不満は募り、45年春、更衣室に立てこもって作業に行かない「ストライキ」をした。代表して将校と話し、身体検査は中止された。
4年生になっていた45年8月6日朝、いつものように同級生とトラックの荷台で出発を待っている時に被爆した。「何が起きたのかと」。慌てて地面に伏せた後、防空壕(ごう)へ。顔と両手をやけどし、恐る恐る外へ出て医務室に行くと、既に何人ものけが人が来ていて、治療を受けられなかった。
空だった倉庫は重傷者でいっぱいに。広島一中(現国泰寺高)の生徒を見つけ、教員だった父親の消息を尋ねようと声をかけたが、反応はなかった。遺体が山積みになった倉庫もあった。背を向けると「遺体の目が自分を見ているよう」に思え体が重くなった。そばの空き地で夜を過ごし、「ゴオー」と炎が燃え上がる音が今も耳に残る。
付属中を卒業後、父親の故郷の熊本へ。第五高等学校(現熊本大)を出て弁護士事務所で働き、司法書士の資格を得た。動員生活で培った反骨精神から、ダム建設に反対する行政訴訟に力を尽くした。
先細りの同窓会
長く付属中「東組」の同窓会に参加してきたが、直近の2019年に集まったのはわずか3人。その一人で市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」を引っ張った中西巌さんも昨夏に93歳で逝った。「建物を壊すと被爆の痕跡が消える」。多感な時期を過ごし、戦争の痛苦を刻む被服支廠への思い入れは強い。
やはり広島県立広島第二高等女学校(現皆実高)在学中に学徒動員され、中西さんから懇談会代表を引き継いだ被爆者の切明千枝子さん(94)=安佐南区=は言う。「戦争は武器や軍服、食料など後方支援の施設がないと成り立たない。広島は原爆が投下される前は加害の街だった」
二度と戦争を繰り返さないため、軍都広島としての反省を込めて残さないといけない―。森さんや切明さんの記憶が導く被服支廠の存在意義はそこにある。(山下美波)
(2024年7月21日朝刊掲載)
刻む記憶 被爆建物 <1> 旧陸軍被服支廠