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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 核否定 原点の体験記 故森滝市郎さん 生々しい被爆の記憶1日ごとに刻む 「さいやく記」原本見つかる

 日本被団協結成に参画し、被爆者運動と原水爆禁止運動を引っ張った森滝市郎さん(1994年に92歳で死去)が、広島で被爆した45年8月6日から1日ごとの体験を記録した「さいやく記」の原本の所在が確認された。右目を負傷しながら、口述筆記にも頼って残していた。米軍による原爆投下でもたらされた「災厄」を生々しい記憶のままに刻んだ第一級の資料だ=34面に関連記事、18・19面に特集。(編集委員・水川恭輔、金崎由美)

 広島高等師範学校(現広島大)の教授だった森滝さんは、動員学徒を引率中に爆心地から約4キロの広島市江波町(現中区)の造船所で被爆。飛び散ったガラス片が右目に刺さり失明した。

 「さいやく記」は8月6日から9月9日までで、便せん20枚につづられている。「右眼を傷つきしを感じ、たゞちにふす。ものすごき爆風と共におびたゞしき物品落ち来る」(6日)。右目は出血し、激痛が走った。

 広島赤十字病院(現中区)に治療に訪れた8日は、「死体と瀕死(ひんし)者とうめき居りて臭気たへがたし」「呻吟(しんぎん)の声ものすごし」と、惨状をにおいや音で感じ取った。右目を負傷しただけでなく、左目も交感性眼炎が危ぶまれる中、「苦痛をしのびて左眼を開いてべつけんするにさんさんたる焼野原なり」と脳裏に広島を焼き付けた。

 8月14日まで学生たちが口述筆記した後、15日以降は森滝さんが自ら記し、手元で保管していた。「広島県史 原爆資料編」(72年刊)に14日分までが収録され、公に知られる存在になった。

 森滝さんは戦後、広島大教授を務める一方、広島県被団協理事長や日本被団協代表委員を歴任。原水禁国民会議の議長も担った。倫理学が専門で「核と人類は共存できない」などの至言を残した。核実験のたびに平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑前に座り込み、広島の象徴的存在だった。

 次女春子さん(85)=佐伯区=によると、日記類のうち、戦時中の物や「さいやく記」、広島県北の眼科に入院していた45年9月から翌年にかけての「敷地の里療養記」は森滝さんの死後、所在が分かっていなかった。学生による被爆直後の看護記録と共に、このほど自宅内で見つかった。

被爆直後の記録 貴重

原爆手記を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授の話
 「さいやく記」は何よりも被爆直後に残された記録である点が貴重だ。当時の状況を後世に残そうとする教師としての責任感のすごさを感じさせる。森滝さんは戦後の日記なども残しており、資料を基に被爆者運動をはじめいろいろな角度からの研究が期待できる。

(2025年1月1日朝刊掲載)

[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 被爆時 マグネシウム様の光 故森滝市郎さん「さいやく記」 惨禍 次代に伝える

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