[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 被爆時 マグネシウム様の光 故森滝市郎さん「さいやく記」 惨禍 次代に伝える
25年1月1日
「核と人類は共存できない」。広島から核兵器廃絶を訴え続けた森滝市郎さん(1994年に92歳で死去)の「さいやく記」は、自身の被爆体験を最も克明に刻んだ記録だ。45年8月6日の朝に書き入れ、被爆の痕跡が残る日記帳も現存。80年前の惨禍を浮き彫りにする。(編集委員・水川恭輔、金崎由美)
「学徒朝礼通常の如く行ふ。週間報告書、書き終りし瞬間(〇八二〇)マグネシウム様の光にて二三歩身をさくると共に轟音(ごうおん)を聞く」(6日)
さいやく記は、森滝さんの戦時下の日常が突如切り裂かれた瞬間から始まる。広島高等師範学校(現広島大)の教授だった。動員された学生を引率して爆心地から約4キロの広島市江波町(現中区)の造船所にいて、右目にガラス片が刺さった。
「道路の両辺既に火災を起し、火災ものすごく、熱風耐へ難し」。車に乗せられて中心部方面の病院を目指すも猛火に阻まれた。船で宮島(現廿日市市)に搬送されると、学生が夜通し看護。流れ出る血を拭き取り、目を冷やした。
8日に治療のため市内に入ると、未曽有の被害を聞いた。「疎開作業の為(ため)県庁付近出動整列中の男女中等学生数千名がぎせいとなりしは最もひさんなり」。同僚にも犠牲者が出ていた。
20日に実家のある君田村(現三次市)に移り、9月9日に吉舎町(同)の眼科に入院した。この間の記録は後にまとめて振り返って書かれ「原子爆弾症にて死に行く人続々出づ」などと記す。
森滝さんは日記を翌朝に書く習慣があり、被爆直前は机にノートを置いて「竹槍(たけやり)五百本作製」などと8月5日分を書いていた。この日記帳は爆風でめくられたページに、インクつぼの中身があちこちに飛び散り、ガラス片が突き破った跡もある。
同居していた次女春子さん(85)=佐伯区=は94年に父を見送った後、自宅に残された戦後の膨大な日記帳などを大切に守ってきた。ただ、「さいやく記」や8月5日までの日記帳の所在が分からず、探していた。
「学生さんたちは、自らも被爆しながら父の口述を記し、看護してくれた。そのおかげで生き延び、後半生に反核の道を歩んだ証しとして、父は被爆時の記録を最も大切にしていました。見つかって、次代につなぐ責任を果たせます」
(2025年1月1日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 核否定 原点の体験記 故森滝市郎さん 生々しい被爆の記憶1日ごとに刻む 「さいやく記」原本見つかる
「学徒朝礼通常の如く行ふ。週間報告書、書き終りし瞬間(〇八二〇)マグネシウム様の光にて二三歩身をさくると共に轟音(ごうおん)を聞く」(6日)
さいやく記は、森滝さんの戦時下の日常が突如切り裂かれた瞬間から始まる。広島高等師範学校(現広島大)の教授だった。動員された学生を引率して爆心地から約4キロの広島市江波町(現中区)の造船所にいて、右目にガラス片が刺さった。
「道路の両辺既に火災を起し、火災ものすごく、熱風耐へ難し」。車に乗せられて中心部方面の病院を目指すも猛火に阻まれた。船で宮島(現廿日市市)に搬送されると、学生が夜通し看護。流れ出る血を拭き取り、目を冷やした。
8日に治療のため市内に入ると、未曽有の被害を聞いた。「疎開作業の為(ため)県庁付近出動整列中の男女中等学生数千名がぎせいとなりしは最もひさんなり」。同僚にも犠牲者が出ていた。
20日に実家のある君田村(現三次市)に移り、9月9日に吉舎町(同)の眼科に入院した。この間の記録は後にまとめて振り返って書かれ「原子爆弾症にて死に行く人続々出づ」などと記す。
森滝さんは日記を翌朝に書く習慣があり、被爆直前は机にノートを置いて「竹槍(たけやり)五百本作製」などと8月5日分を書いていた。この日記帳は爆風でめくられたページに、インクつぼの中身があちこちに飛び散り、ガラス片が突き破った跡もある。
同居していた次女春子さん(85)=佐伯区=は94年に父を見送った後、自宅に残された戦後の膨大な日記帳などを大切に守ってきた。ただ、「さいやく記」や8月5日までの日記帳の所在が分からず、探していた。
「学生さんたちは、自らも被爆しながら父の口述を記し、看護してくれた。そのおかげで生き延び、後半生に反核の道を歩んだ証しとして、父は被爆時の記録を最も大切にしていました。見つかって、次代につなぐ責任を果たせます」
(2025年1月1日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 核否定 原点の体験記 故森滝市郎さん 生々しい被爆の記憶1日ごとに刻む 「さいやく記」原本見つかる