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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1950年10月 「原爆の図」展示 人間の惨状 夫妻で描く

 1950年10月5日。広島市内では初めて、「原爆の図」の展示が始まった。被爆した人間の惨状を描いた大作。東京の水墨画家の丸木位里さん(95年に94歳で死去)と洋画家の俊さん(2000年に87歳で死去)夫妻が共同制作した。

焼け跡よりも

 会場は原爆ドーム(現中区)そばの五流荘。俊さんは8日に現地であった座談会でこう語った。「原爆といえば雲がむくむくでているとか、焼跡だとか(略)。それより人間が死んだということがつらいし、癪(しゃく)にさわるという気持ちがあつて、どうしても人間のみを描きたいとおもつた」(「われらの詩」第10号)

 丸木夫妻は、戦前から画家として活動。被爆3日後の45年8月9日、位里さんは親や親戚の住む広島に向かい、「焼けた人、血を吐く人、狂った人」(以下2人の80年の著書「原爆の図」)たちを見る。俊さんも続き、救援活動を手伝った。

 終戦後は東京に戻り、「平和な明るい顔を描こう」と画家仲間と誓い合う。そう思って招いたモデルは、戦争で恋人を失っていたり、足の裏に傷痕があったりした。世界が冷戦に覆われる中で「次の戦争の暗雲」を感じながら、48年夏に原爆の図の制作を決めた。

 50年2月から東京で「幽霊」「火」「水」を順次公開。広島でも初期3部作を並べた。手や顔が膨れ上がった人、炎に包まれる人…。位里さんのおいの小田芳生さん(83)=安佐南区=は「惨状を絵に残すという一心だったのでしょう」。時代状況も考えると一層、生前の位里さんにかけられた「ぶれない生き方をしなさい」との言葉が作品に重なるという。

厳しい監視も

 展示4カ月前に朝鮮戦争が勃発し、50年8月6日の平和祭は占領軍との交渉の末に突然中止された。警察は「反占領軍的」(広島市警が当時配った警告ビラ)な活動を厳しく監視していた。

 その中で、会場となった五流荘は47年ごろ完成のバラック建ての展示場。広島の復興初期の文化活動を支え、47年の平和祭では華道会や音楽会の会場になった。運営していた梶尾賢弌(けんいち)さん(71年に69歳で死去)の孫吉川弌子(かずこ)さん(81)=西区=は「幼い頃、走り回って遊んでいました」と懐かしむ。

 己斐町(現西区)で被爆した梶尾さんは後に原爆被害を伝える冊子を作り、「助けを求める阿鼻叫喚(あびきょうかん)の声を聞くのみでいかんともする事が出来ないまま只震えていた」との体験も記した。吉川さんは原爆の図の展示の経緯は聞いていないが、「思うところがあったのでしょう」と推し量る。

 展示には詩人峠三吉さんたちのグループ「われらの詩(うた)の会」も尽力し、広島の後は全国を巡回した。原爆の図丸木美術館(埼玉県)によると、53年までに全国約170カ所に上った。

 ただ、監視の目も注がれた。広島県は51年5月に「『原爆の図』展覧会に関する調査」(市公文書館所蔵)を県内の自治体に依頼。「全国各地において展覧会を開催しこれと並行して催される平和懇談会において反米、反戦熱を煽(あお)っている模様である」とし、開催状況や客層の報告を求めた。(下高充生)

(2025年2月17日朝刊掲載)

[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1950年夏 呼び名「原爆ドーム」初使用

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