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連載・特集

[ヒロシマドキュメント 被爆80年 1945.8.6~2025] 1950年6月 朝鮮戦争開戦 8月 平和祭中止

「国際情勢のひっ迫した今日、原爆の犠牲が無駄ではなかった事が世界中に示されるように」

絶えぬ戦火 被爆者の叫び

 1950年夏、朝鮮戦争が起き、広島市の平和祭(現平和記念式典)は連合国軍総司令部(GHQ)側との交渉の末に中止に追い込まれた。その渦中に市が編んだ「原爆体験記」は、5年前の市民の生々しい惨禍の記憶を紙に刻む。核兵器使用が危ぶまれる朝鮮半島には広島で被爆した人たちもいた。原爆に苦難を強いられた市民が、平和を願いながら、新たな戦争に不安を募らせ、振り回されていた。(山下美波、下高充生、頼金育美)

原爆手記に非戦の願い 北山さん、惨禍の記憶とともに刻む

 1950年7月1日。当時38歳の北山二葉さんは、広島市の募集に応じて「原爆体験記」を書き上げた。原爆で夫を亡くし、爆心地に近い相生橋(現中区)そばのバラックで3児を養う身。顔や手には、やけどの痕がケロイドとなって残っていた。

 「母の苦労を間近で見ていたから、私たち子どもは修学旅行があるのも言い出せなくて」。長女の黒河直子さん(93)=西区=は当時の心境を明かす。指が開かなくなるほどだった左手の傷痕を押して働きに出る母の姿は記憶にあるが、手記を書く姿はない。「夜中にでも書いたのでしょうか」

 45年8月6日。北山さんは爆心地から約1・7キロ東の建物疎開作業の現場で被爆した。熱線を受けた鼻と口を手拭いで拭うと、「顔の皮膚がズルッとはがれた感じにハッとした」(以下、市に寄せた手記)。手の指も皮膚が垂れ下がり「『しまったっ。火傷(やけど)だっ』と魂の底からうめいた」

 姉に助けられ、親類がいた広島県神杉村(現三次市)の救護所で手当てを受けた。すると、中国新聞社の社員で別の建物疎開作業現場で被爆した夫一男さん=当時(40)=も運ばれてきた。北山さんよりもけがが軽く見えたが、13日に逝った。

 子どもたちはそれぞれ県北に疎開し、被爆を逃れていた。「私の枕元に『お母ちゃん』と云(い)って座った坊やの声、あの時の血の出るような悲しさは今思ひ出しても涙があふれて来る」。自身が死んでも夫が生き残ると思っていたが、「私は死んではならない」と祈り続けた。

 女学生だった直子さんが休学し、全身包帯姿の母を看護した。年末には歩けるようになったが、戦後の物価高で「髪ふり乱すような生活難が襲いかかって来た」。47年に、「母子路頭に迷う一歩手前」で中国新聞社に職を得た。

 体験記は、広島市が「市民の貴重な体験を生かして世界平和運動に寄与する」として、50年6月20日から7月10日まで募集。朝鮮戦争勃発の6日後につづった北山さんは、こう結んだ。「国際情勢のひっ迫した今日、願はくは、原爆の犠牲により平和のために捨てた尊い二十万の命が決して無駄ではなかった事が世界中に示されるように」

 ただ、市公文書館に残る直筆原稿はこの部分に「×」が引かれ、刊行された「原爆体験記」にも載らなかった。平和祭が中止に追い込まれる社会状況だったが、誰がなぜ削除したのか、詳しい経緯は分かっていない。

 「無数の遺体」「さながら生地獄」…。「原爆体験記」は寄せられた160編余りのうち、18編と別に16編の抜粋を収録した。国内外に広く配る計画だったが、結局ごく一部の関係者へ渡すにとどまったという。浜井信三市長は後に、占領軍の「厳しい監視」でそうせざるを得なかったと著書「原爆市長」(67年)に記す。

 直子さんは80年、母を68歳で見送った。戦火が絶えない中、「母なら今、末文のことを言いたかったでしょうね」。特定の運動に加わらず、被爆した一人の市民として生きた母の「声」をかみしめる。被爆5年に市に寄せられた体験記は今、未収録分を含め市公文書館で全編が公開されている。

平和祭 直前まで開催方針 国際情勢に押され取りやめ

 広島市の平和祭は1947年から3年連続で開かれ、市長の平和宣言は人類史的な観点から戦争放棄や平和創造を訴えていた。連合国軍総司令部(GHQ)や英連邦軍も依頼に応じてメッセージを送ったり出席したりした。広島側が50年も協力を得ようとした記録が市公文書館に残る。

 「各民族間に平和と善意をもたらすべく努力することの益々(ますます)重要なることを信ずる」。市などでつくる広島平和協会は、GHQの中国地方民事部宛ての7月17日付文書で開催意義を説き、前年に続く協力を求めた。

 民事部は21日、「御招待を喜んで御受け致します」と返信した。しかし、その後に事態が一変したとみられ、8月2日の平和協会常任委員会では決定事項として、「新情勢に處(しょ)して此(こ)の際式典を取止める」と報告された。民事部に加え、「国警(国家地方警察、現警察庁)本部県管区本部長、市警本部長」との交渉の結果と説明された。

 市の奥田達郎助役は同日、「都合により取止めることになった」と平和祭の中止を発表したが、詳しい理由は述べなかった。中止は海外でも報じられ、6日付米紙ニューヨーク・タイムズに載ったロイター通信の配信記事は、開催すれば共産主義者たちが「この機会に好ましくない行動を起こす恐れがある」とした。

 冷戦激化に伴い、米国内で共産党員を排除する「レッドパージ」が拡大。広島で被爆した谷本清さんは48、49年の渡米時、「平和運動をするものはソ連に味方するものだと思わぬ攻撃に会う」と聞いたと著書に記す。

 GHQも同じ姿勢を強め、日本の警察も足並みをそろえた。中止決定後の5日、広島市警は「平和祭に名をかる不穏行動に乗るな!」と警告するビラを配った。平和を冠する特定の団体名も記し、「反占領軍的又(また)は反日本的なものと思われる集会」などに参加しないよう呼びかけた。6日には「不穏ビラ」をまいたとして4人を逮捕した。

祖国に戻っても 安住できず 広島で被爆の朴さん

 朝鮮戦争が開戦して3日後の1950年6月28日。韓国の首都ソウルで暮らしていた当時15歳の朴貞順(パク・ジョンスン)さん(90)=釜山市=は、ごう音を聞いた。

 「ドーンというすごい音。また原爆が落ちたのかと思いました」。韓国軍による漢江大橋の爆破だった。北朝鮮軍の侵攻を食い止めるためだったが、橋を渡り避難しようとした多くの市民も犠牲になった。朴さんは一緒に暮らす姉夫婦と身一つでソウルから逃げた。

 朴さんは34年、名古屋市で生まれた。日本に併合された朝鮮半島から海を渡った父が、工場勤めで家計を支えていた。知人の紹介で広島市の工場へ転職。残る家族も45年に市へ移り、両親ときょうだいの一家7人で打越町(現西区)に住んでいた。程ない8月6日、朴さんは自宅で被爆。柱の下敷きになり、「血だらけの頭を母が布で拭ってくれました」と振り返る。

 翌年に両親の故郷の現韓国・忠清南道に戻ったが、両親とも被爆後から病気がちで働けなくなった。朴さんは一時、工場で働いた。「菜の花を摘んで空腹をしのいだ」という。

 学びたくて、結婚していた姉を頼ってソウルの中学に通っていた時に朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の侵攻を逃れてソウルから約100キロ離れた忠清南道に戻った。父はなおも体が思うように動かず、さらに戦火が再起の壁になった。歯がゆかったのか、飲酒量が増加。53年に休戦協定が結ばれてしばらくして亡くなった。50歳手前だった。

 朴さんはその後、妹3人を養うために働きながら勉強して、教員免許を取得した。「戦争がなければ、父もあんなふうに死ななかったはず。私も勉強する大切な時を奪われた」と嘆く。2度の戦争の苦難から「人間らしく死ぬことができる平和な世の中を」と願う。朝鮮戦争の休戦協定までの死者は数百万人とされ、国際法上は戦争は終わっていない。

米、核使用の可能性示唆

広島市長「許されない」仏紙で訴え

 朝鮮半島では、1910年に日本が大韓帝国を併合。45年の日本の敗戦後は、北緯38度線を境に南側を米国、北側をソ連が占領した。その後、48年に韓国、北朝鮮が相次いで建国を宣言。北朝鮮が韓国に侵攻し戦争が起こった。

 韓国を支援する国連軍を主導する米軍が、再び原爆を使う懸念も広がった。トルーマン大統領は49年、世界の福祉が危機にひんする場合、「再び原子爆弾の使用を決定することをためらわないであろう」と言明していた。

 広島市の浜井信三市長は50年7月16日、MRA(道徳再武装)世界大会出席のため渡欧中、フランスの地元紙の取材に「米国が朝鮮で原子爆弾を使用することにたいしてはわれわれは声を大にして反対する」と強調。核兵器使用は「世界のどこにおいても許さるべきではない」と訴えた。

 ただ、トルーマン氏は11月に「どうしても必要とあらば原爆を使用することも考慮中」と朝鮮戦争での核兵器使用の可能性を示唆した。

 日本は後方補給基地となり、駐留米軍は朝鮮半島に送られた。GHQの指示を受け、日本は50年8月、自衛隊につながる警察予備隊を創設した。GHQが46年に日本政府に示した憲法草案では非軍事化を強く求め、今の憲法9条に反映されたが、占領の方針は大きく変わった。

(2025年2月16日朝刊掲載)

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