[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 親奪われた者の苦難 忘れないで 「あゆみグループ」の松井さん
25年4月3日
原爆の爆風にも耐えた築九十余年のわが家。昼下がり、年季の入った台所に立ち、夫(96)にコーヒーを入れる。結婚54年目。広島市南区の松井美智子さん(89)の日々は今、穏やかに流れる。
「原爆のことなど、もう話す気もなかったんです」と松井さんは言う。思い出したくなくて、テレビの関連番組も見ないようにしてきた。でも昨年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、祝賀ムードばかりが届く。喜びより、焦りにも悔しさにも似た感情が首をもたげた。
忘れられていないか。原爆に遭った者がいかに悲惨な戦後を生きたか。私の仲間には、後に白血病に命を絶たれた者も、今なお心の傷に苦しむ者もいるというのに―。
松井さんは被爆10年後、原爆に親を奪われた青年たちでつくった「あゆみグループ」のメンバーだった。1955年、原爆孤児の支援運動を展開した「広島子どもを守る会」の募集に応じ、手記を寄せたのがきっかけ。市内の8人が集まり、その年の10月に発足した。
手記の共通テーマは「原爆から10年、私はこうして生きてきた」。中国新聞が55年7月25日付朝刊から一部を連載している。26日付の「広島市・無職・十九歳・B子さん」が松井さんだ。こう書き出した。「八月六日、私は天にも地にも、かけがえのない両親と祖父を、あの原爆で失ってしまった」(編集委員・田中美千子)
(2025年4月3日朝刊掲載)
ヒロシマドキュメント 証言者たち 松井美智子さん(前編)
「原爆のことなど、もう話す気もなかったんです」と松井さんは言う。思い出したくなくて、テレビの関連番組も見ないようにしてきた。でも昨年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、祝賀ムードばかりが届く。喜びより、焦りにも悔しさにも似た感情が首をもたげた。
忘れられていないか。原爆に遭った者がいかに悲惨な戦後を生きたか。私の仲間には、後に白血病に命を絶たれた者も、今なお心の傷に苦しむ者もいるというのに―。
松井さんは被爆10年後、原爆に親を奪われた青年たちでつくった「あゆみグループ」のメンバーだった。1955年、原爆孤児の支援運動を展開した「広島子どもを守る会」の募集に応じ、手記を寄せたのがきっかけ。市内の8人が集まり、その年の10月に発足した。
手記の共通テーマは「原爆から10年、私はこうして生きてきた」。中国新聞が55年7月25日付朝刊から一部を連載している。26日付の「広島市・無職・十九歳・B子さん」が松井さんだ。こう書き出した。「八月六日、私は天にも地にも、かけがえのない両親と祖父を、あの原爆で失ってしまった」(編集委員・田中美千子)
(2025年4月3日朝刊掲載)
ヒロシマドキュメント 証言者たち 松井美智子さん(前編)