ヒロシマドキュメント 証言者たち 松井美智子さん(前編)
25年4月3日
集った若者 みな暗い目
心ほぐした夫婦は「恩人」
「あの頃のことは今も忘れん。まだ9歳だったのに」。広島市南区の松井美智子さん(89)は言う。
呉服商の家に生まれた一人娘。国民学校4年生に進級した1945年春から、富士見町(現中区)の両親の元を離れ、三滝町(現西区)に祖父母たちと疎開していた。
8月6日、近所にあった学校の分教場で被爆した。崩れた建物をはい出し、疎開先へ走ると、もう火の手が回っていた。祖母は原爆に上半身と顔を焼かれ、松井さんもガラス片が刺さった背中に傷を負っていた。
その夜から焼け跡にむしろを敷き、両親の迎えを待った。が、一向に現れない。祖父も6日朝に出かけたきりだった。10日ごろ、少し動けるようになった祖母と共に捜し始める。多くの無残な死を目にしたが、松井さんは怖いとも思わなかったという。「心がまひしとったんでしょう」
9月半ば、富士見町の焼け跡で両親と祖父の骨らしきものを拾った。「本物かどうか…」。それでも戦後、復員した叔父の元に落ち着くと、枕元に置いて寝た。55年に「広島子どもを守る会」へ寄せた手記にも「思い出すのは、やはり両親のことだ。どんなにみにくいケロイドがあっても、生きていてくれたらと思う」と思慕をつづった。
この手記の募集が「あゆみグループ」誕生につながり、親が被爆死した同年代の若者が集った。松井さんは55年秋、初顔合わせした日の様子を覚えている。どの目も暗かった。一言も話さない者もいた。「ひどい目に遭い、人間不信になった者ばかり。みな心を殺して生きてきたんです」
後に知った仲間の10年は、それほどまでに過酷だった。女学校1年生で孤児となり、日雇い労働で弟妹4人を養ってきた者。栄養失調から結核を患い、あばら骨を6本も切除した者。何とか生き延びたのに「母親を見殺しにした」となじられ、親戚の元を飛び出した者もいた。彼は放浪中に盗みを働き、少年鑑別所に送られたこともあるという。
松井さんにも、惨めな思いをした記憶は山とある。「それでも恵まれとった。私にはあの日を共に生き延びた祖母も、高校まで行かせてくれた叔父もおりましたから」
グループの「恩人」がいる。手記を募った「守る会」の理事で広島大教授の中野清一さんと、妻千歳さん(いずれも故人)。メンバーがいつも集まる場も、中野さん一家が暮らす東千田町(現中区)の官舎だった。
そこには家族のようなぬくもりがあった。千歳さんの口癖は「ご飯食べた?」。大量の食パンが買い置きしてあった。誕生日も祝ってもらった。松井さんは、パール・バックの小説をプレゼントされたという。
20歳の頃、松井さんが今の広島労働局への就職を決めると、中野さんは職場にも顔を見せてくれた。他の仲間の就職の保証人も引き受けていた。仕事が続かなかったり、警察の世話になったりする者のことも決して見捨てなかった。「夫婦して私たちの心を懸命にほぐしてくださったんです」
グループは「守る会青年部」との位置付けで、機関紙「あゆみ」を刊行。成人式に足を運んで仲間を募るなど、地道に支え合いの輪を広げ、会員は100人ほどに膨らんだ。
世話役の中野さんを介し、メンバーが体験を語る機会が増えていった。20代だった松井さんも平和団体に請われ、何度か証言の場に立つことになる。(編集委員・田中美千子)
(2025年4月3日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 親奪われた者の苦難 忘れないで 「あゆみグループ」の松井さん ヒロシマドキュメント 証言者たち 松井美智子さん(後編)