[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1960年8月 原爆ドーム保存運動開始
25年4月6日
1960年8月。「広島折鶴の会」の子どもたちが、広島市の爆心地近くに残る原爆ドームの保存を求め、署名を集め始めた。まず平和記念公園(現中区)で協力を呼びかけ、その後も繁華街や催し会場に立った。
会は、被爆10年後の佐々木禎子さんの死をきっかけにした「原爆の子の像」建設運動の流れで58年に発足。60年5月の除幕2年の集会で読まれた楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記により、ドームの保存運動へ駆り立てられた。1歳で被爆し、禎子さんと同じ白血病のため4月に16歳で亡くなっていた。
署名を募るビラには、「あの痛々しい原爆ドームだけが、いつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるであろう」と楮山さんが残した日記の要旨を記した。ドームを管理する市の関係者から補修には「お金の問題」があると聞き、街頭活動では費用を支援する募金箱も抱えた。
時代は、高度経済成長期の真っただ中。全国各地の建設ラッシュとは対照的に、風雨にさらされるがままのドームは崩落も危ぶまれた。会の活動は市民による保存運動の先駆けとなり、児童生徒たちの目は、過去とともに未来へも向いていた。
「今、生きておられる被爆者の方の声も、あと百年もすれば、聞くことができなくなります。その時こそ、私達にとって、原爆ドームは、沈黙の教師としての役割を果してくれることでしょう」(会が67年に発行した冊子「爆心地」)
会は活動の際に「原爆症」で命を奪われた被爆者たちの遺影を携え、家族を失った子どもも加わった。60年代後半にかけて続け、多くの署名と募金を市に届けた。やがて「大人」たちも保存へ動く。(山下美波)
(2025年4月6日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1945.8.6~2025 1960年8月 原爆ドーム保存運動 始まる
会は、被爆10年後の佐々木禎子さんの死をきっかけにした「原爆の子の像」建設運動の流れで58年に発足。60年5月の除幕2年の集会で読まれた楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記により、ドームの保存運動へ駆り立てられた。1歳で被爆し、禎子さんと同じ白血病のため4月に16歳で亡くなっていた。
署名を募るビラには、「あの痛々しい原爆ドームだけが、いつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるであろう」と楮山さんが残した日記の要旨を記した。ドームを管理する市の関係者から補修には「お金の問題」があると聞き、街頭活動では費用を支援する募金箱も抱えた。
時代は、高度経済成長期の真っただ中。全国各地の建設ラッシュとは対照的に、風雨にさらされるがままのドームは崩落も危ぶまれた。会の活動は市民による保存運動の先駆けとなり、児童生徒たちの目は、過去とともに未来へも向いていた。
「今、生きておられる被爆者の方の声も、あと百年もすれば、聞くことができなくなります。その時こそ、私達にとって、原爆ドームは、沈黙の教師としての役割を果してくれることでしょう」(会が67年に発行した冊子「爆心地」)
会は活動の際に「原爆症」で命を奪われた被爆者たちの遺影を携え、家族を失った子どもも加わった。60年代後半にかけて続け、多くの署名と募金を市に届けた。やがて「大人」たちも保存へ動く。(山下美波)
(2025年4月6日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1945.8.6~2025 1960年8月 原爆ドーム保存運動 始まる