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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1967年11月 原爆映画の返還

全面公開へ市民ら運動

 1967年11月。被爆間もない広島と長崎を撮影した原爆記録映画が、米国から日本に21年ぶりに返還された。占領期に米軍が持ち去った「幻の原爆映画」として全国で注目された。

 映画は日本映画社(日映)が文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の現地調査に合わせて企画。物理学者の仁科芳雄博士(51年に死去)に監修を依頼した。広島では45年9月下旬から10月にかけ、市内の焼け跡や被爆者の外傷、放射線障害などを収めた。

 だが、長崎では占領軍の干渉で撮影中断を強いられ、12月からは米戦略爆撃調査団からの委嘱という形での製作を余儀なくされた。英語ナレーションを付けて映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」(2時間45分)が46年4月に完成し、そのフィルムも、撮影時のネガも米国へ送られた。

 占領期が終わると、仁科博士の顕彰や科学の振興を掲げる仁科記念財団が、映画の所在確認や返還を米国の科学者に働きかけた。動き始めるのは67年5月。AP通信が映画の現存を報じ、「映画を見せることは日米関係に悪影響」と返還に消極的だった米政府内に、容認論が出ていると伝えた。

13分をカット

 報道を受け、広島、長崎の研究者やジャーナリストたちでつくる「原爆被災白書推進委員会」などが返還実現を日本政府に要望。日米両政府が交渉し、11月に映画フィルムの複製が文部省に引き渡された。当時の日本政府の説明によれば、米国側が応じる背景には、日本側の動機が反米感情ではなく学術的な目的との受け止めがあった。

 文部省は一般公開用に製作した日本語版から、「写っている人への人権配慮」を理由に人間の生々しい被害を捉えた映像計約13分をカットした。68年4月にNHK教育で全国放送され、広島市内で上映会も開かれると、市民からは被爆実態の発信へ活用を望む声とともに不満も漏れる。

 「核兵器の残虐性こそ示す必要があるのだから、ノーカットフィルムを公開すべきだ」(被爆者の吉川清さん)

被爆12人承諾

 白書運動に携わる広島大の今堀誠二教授や日本被団協の森滝市郎理事長たち11人の呼びかけで、映画の「全面公開推進会議」が6月に発足。カットされたとみられる22場面に写る被爆者を捜し、公開の承諾を得る運動を始めた。写真家の菊池俊吉さんが映画撮影に同行して残したスチル写真やメモを手がかりにし、10月までに被爆者12人について承諾を得た。

 その一人で、頭を大けがし、髪も抜け落ちた姿を撮られた迫越英一さん(85年に60歳で死去)は「あの悲惨さを知ってもらってこそ」と訴えた。推進会議は「核戦争への警告」として全面公開を求めたが、政府は応じなかった。

 70年、日映の後進の日本映画新社が映画「ヒロシマ・原爆の記録」(29分)を製作し、カットされた映像も公開された。使われたのは、日映関係者が米軍の目をかいくぐり秘匿していた同じ映像の未編集フィルム。製作費を広島市などが出し、市民代表たちでつくる製作委員会が企画した。

 米国には占領期に日本の医学者たちから接収した資料がなお残っていた。犠牲者の数多くの病理標本や医学記録は、73年に返還された。(編集委員・水川恭輔)

(2025年4月16日朝刊掲載)

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