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連載・特集

[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 川下ヒロエさん(前編)

最初の記憶は働く母

自活目指し がむしゃらに

 川下ヒロエさん(79)=広島市東区=の一番古い記憶は、働く母の姿だ。「どこに行くにも連れて行かれた」。かやを刈りに山に入った時には、そばで竹によじ登って遊んだ。日雇い現場では、たき火に当たりながら作業が終わるのを待った。

 「仕事、仕事…。それだけでした。1日働かなかったら次の日はどうしようもないから」。母兼子さんも1996年8月6日、中区での被爆証言で、戦後の困窮ぶりを語っている。「あの日」、母子の苦難の人生が始まった。

 兼子さんは山口県西部出身。親の反対を押し切って結婚し、広島市で新生活を始めた。夫は輸送船の乗組員。たまの休日には長男を自転車に乗せ、子煩悩ぶりを発揮した。

 45年8月6日も夫は休暇中だった。米軍による原爆投下時、自宅のあった広瀬北町(現中区)で建物疎開作業を手伝っていた。兼子さんは崩れた自宅からはい出した。長男を抱え、郊外の救護所へ。夫も同じ場所に運び込まれたが、9日未明、帰らぬ人となる。遺骨とともに実家に帰った後、兼子さんも口内の激痛に襲われ、1カ月近く伏せったという。

 妊娠に気付いたのはその後だ。年の瀬に自宅跡へ戻り、3月末にヒロエさんを「掘っ立て小屋で産んだ」。再び郷里の父を頼るが、長男は夫の実家に託すことになった。

 「あまりに体が小さいから栄養失調かね、原爆のせいかも分からないね、と」。おなかの中で被爆した娘は、他の子とは明らかに違った。歩くようになったのは3歳の時だ。54年に小学校に入ったが、すぐに長期入院。結核だった。

 ヒロエさんには、病院を後にする母を追い、周りの大人に止められた記憶があるという。「長いこと入院した。学校が飛び飛びだから勉強についていけなかった」

 一方で兼子さんにとっては、娘と離れたのが転機となったらしい。バスに飛び乗り、下関市へ。「親に頼らず、一日も早く自活したかった」。娘の退院に備え、がむしゃらに働き始めた。

 住み込みを条件に旅館や乳児院、病院などの仕事を渡り歩いた。65年に北九州市へ。会社の寮母に落ち着く。ヒロエさんは、この間の記憶が乏しいが、北九州市で中学を卒業した。19歳になっていた。(編集委員・田中美千子)

(2025年4月28日朝刊掲載)

[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 原爆小頭症の川下さん 「1人で何でも」母の厳しさ

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