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[戦後80年] 陸奥の悲劇 伝え続けて 102歳元乗組員篠原さん ゆかりの寺に託す思い

 1943年6月8日に岩国市の柱島沖に沈んだ戦艦陸奥。元乗組員で102歳の篠原喜一さん=長野県=は、原因不明の爆沈で1121人が亡くなった悲劇を伝えてきた。よわいを重ねて発語もままならない今、自らが思いを託した陸奥ゆかりの群馬県の寺が慰霊や継承のよりどころになっている。(山本祐司)

 八ケ岳連峰のふもとに広がる長野県小海町。人口約4千人の高原の町の特別養護老人ホームで篠原さんは暮らす。最近はほぼ一日中、ベッドに横たわっているという。

 「誰もいねえ」。海底に眠る陸奥の近影を見せると、そう声を振り絞った。「元乗組員で他に生きている者はいない」と言おうとしたようだ。主砲の写真を並べたり、表裏を返したり…。何か伝えようとするも言葉にならない。大きく息を吐き、目を閉じた。

 残された聞き書きによると、篠原さんは旧海軍の1等水兵として陸奥で砲弾を運ぶ任務だった。甲板で「ドーン」というごう音が耳を貫き、艦が大きく傾いた。海に落ちて一時的に気を失うものの、近づいた戦艦長門に救助された。

 命拾いする間、目の前には理解不能な凄惨(せいさん)な光景が広がっていた。空から落ちてきた3、4メートルの黒い塊。それが甲板にいた兵士を根こそぎ消し去った。艦橋からはパラパラと人が落ち、海面に漂う兵士は重油をかぶって息絶えるか、沈んでいった。1週間後、近くの続島で収容した遺体を焼く任務を命じられた。

 篠原さんは約30年前、海軍ゆかりの呉市などを巡り、山口県周防大島町で開かれている慰霊祭を知る。以降は式典に参加するようになり、その出席者から一部が引き揚げられた陸奥の鋼鉄を使い鐘を鋳造した寺があると聞いた。それが群馬県渋川市の福増寺だった。

 同寺にとっては、戦時中に供出した鐘の復元だった。新しい鐘が届くと、陸奥との縁を感じて寺の関係者だけで慰霊祭を毎年営んでいた。そこへ篠原さんが約15年前に現れ、陸奥の悲劇を詳しく知ることになった。

 境内には今、篠原さんの筆による記念碑や柱島沖を模した庭がある。市内に住む遺族が手を合わせるほか、戦艦好きが高じて陸奥の歴史の継承に取り組む前橋市の女性も通っている。

 寺には、篠原さんが残した品々もあった。その一つを見せてもらった。遺体を焼いた続島の浜辺を筆で描き、「脳裡(のうり)から離れない」などとつづっていた。

 横山和弘住職は「篠原さんは生きることにつらさを抱えているようだった。ここに思いを残してもらった。平和への願いを深めたい」と話す。書は軸装され、丁寧に巻かれていた。

(2025年6月8日朝刊掲載)

[戦後80年] 岩国沖の陸奥 朽ち果てた姿 8日慰霊の日

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