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[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 岡本純子さん 惨禍の記憶 息子に託す

父は日系人 母は被爆死

 「父は英語ペラペラでね。私たちは『パパさん』と呼んでました」。広島市南区の岡本純子(すみこ)さん(95)は懐かしむ。「もちろん、家の中だけですよ」。戦中は「敵性語」とされたからだ。

 ハワイ生まれの父、菅省三さんは日米両国籍を持っていた。日清、日露戦争を勝ち抜いた日本軍に憧れ、海を渡ってきたらしい。実際、軍の通訳となった。純子さんは、その勤務先があった東京で生まれ、すぐに両親ゆかりの広島県海田市町(現海田町)へ移った。

 3人きょうだいの長女。裕福な家庭だったようだ。「何人だったか、ねえやさんがいました。ママさん、お勤めもしてましたから」

 母照子さんは実家の家業の青果問屋を手伝っていた。純子さんが広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)に進み、下校時に十日市町(現中区)の職場に寄ると、芝居や買い物に連れて行ってくれた。「幸せでしたよ」。ただ、戦時色は次第に強まり、ついに「あの日」、人生が一変する。

 原爆投下時、純子さんは同県府中町の東洋工業(現マツダ)にいた。近くの防空壕(ごう)から出ると、大やけどを負った人がぞろぞろ歩いている。指示通り、工場へ運んだ。「水、水って言われてね」。「飲ませたら死ぬ」と言われたが、兵隊の目を盗み、湿らせた布を口元へ運んだ。

 帰宅を許され、海田市駅に着くと、三つ下の妹が待っていた。誰も戻らない、と泣きじゃくる。学徒動員に出ていた年子の弟は幸い無事だったが、母が帰らない。近所に住んでいた母方の祖母と2人、翌朝から職場付近を歩き回った。

 祖母は必死の形相だった。「照ちゃん」と連呼しながら、川岸に積まれた遺体の山をかき分け、1体ずつ確かめる。「私にはできなかった。わが子のためなら親は何でもするんですね」。1週間ほど捜したが見つからなかった。36歳だった。

 任務のため京城(現ソウル)にいた父には、母の死を電報で伝えた。父は秋ごろに戻ると、今度は占領軍の通訳を務める。ただ、ハワイにきょうだいが残っていたのに、二度と米国の地を踏まなかった。73年に68歳で死去。純子さんは父の記憶を手繰り、その胸中を推し量る。「やっぱり嫌だったんだろうねえ。奥さんを奪われたんだから」

 日米のはざまに揺れたであろう祖父の思い。そして、母の過酷な過去。「まるで知らなかったんです」と、長男の雅隆さん(73)=西区=は明かす。会社員の父と結婚し、専業主婦となった母。洋裁や料理が上手で、誕生日にはケーキを焼いてくれた。関西の学校に通った自身は、平和教育も受けていない。26年前に逝った父も被爆者だったが、あの日のことは聞かずじまいだった。

 市の「家族伝承者」制度を知ったのは、国内外を飛び回った商社勤めを終えた頃。応募したいと切り出すと、母は重い口を開いてくれた。聞き進めるほど痛感した。「風化させてはいかんな、と」

 2年前に伝承者デビュー。今は2カ月に1回ほど、母の体験を講話する。「子や孫の世代にもつなぎたい」と、長女に原稿の英訳を頼んだ。米国人男性と結婚し、米本土に移住。娘2人を育てている。「原爆を使えば何が起きるか。いつか現地でも、母の体験を伝えてくれたら」と雅隆さん。世代を超え、日米との縁をつむぐ家族の歴史とともに―。ひそかな願いだ。(編集委員・田中美千子)

(2025年6月10日朝刊掲載)

[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 息子が伝承者の岡本さん 90歳過ぎ 記憶の封印解く

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