[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 袋町国民学校で被爆 友田さん 原爆が強いた流転の人生
25年6月11日
1960年3月26日、中国新聞にこんな見出しが躍った。「帰ってくる友田君 韓国へ渡った原爆孤児」。青年の顔写真が添えてある。その人、友田典弘(つねひろ)さん(89)を大阪府門真市の自宅に訪ねた。65年分の年輪を刻んだ顔ながら、若い頃の面影がはっきり残る。照れたような笑顔で迎えてくれた。
12年前に妻を見送り、府営住宅に1人暮らし。どの部屋にも親しい友人たちと撮った写真が飾られ、自慢のラジコンカーコレクションが整然と並ぶ。鳥籠には小鳥が4羽。水槽では熱帯魚がゆらめく。「寂しくてね。つい物が増えてしまう」
夜は仏間で家族の遺影を見上げながら眠りに就く。妻の隣には母と弟の白黒写真。2人とも原爆の犠牲者だ。「僕かて何度も死ぬ思いをした。生き運が強いんかな」。自らも、あの日を境に流転の日々に放り込まれた。
1945年8月6日、広島市の袋町国民学校(現中区の袋町小)で被爆した。爆心地からわずか460メートル。奇跡的に命をつなぐも、9歳で孤児となった。翌月、知人の朝鮮人男性に連れられ、渡った先が今の韓国だ。その人とも別れ、ソウルの片隅で路上生活を送るさなか、今度は朝鮮戦争が勃発する―。
砲弾が目の前を飛び交った。極寒の冬、凍傷でも死にかけた。望郷の念に駆られるが、帰国の願いがかなわず、自ら命を絶とうとしたこともある。「誰かに生かされてきた。きっと、お母さんの力と思うよ」。最愛の人の記憶を語り始めると、その目にたちまち涙がたまった。(編集委員・田中美千子)
(2025年6月11日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 友田典弘さん(前編) 爆心地から460メートル 母と弟失う
12年前に妻を見送り、府営住宅に1人暮らし。どの部屋にも親しい友人たちと撮った写真が飾られ、自慢のラジコンカーコレクションが整然と並ぶ。鳥籠には小鳥が4羽。水槽では熱帯魚がゆらめく。「寂しくてね。つい物が増えてしまう」
夜は仏間で家族の遺影を見上げながら眠りに就く。妻の隣には母と弟の白黒写真。2人とも原爆の犠牲者だ。「僕かて何度も死ぬ思いをした。生き運が強いんかな」。自らも、あの日を境に流転の日々に放り込まれた。
1945年8月6日、広島市の袋町国民学校(現中区の袋町小)で被爆した。爆心地からわずか460メートル。奇跡的に命をつなぐも、9歳で孤児となった。翌月、知人の朝鮮人男性に連れられ、渡った先が今の韓国だ。その人とも別れ、ソウルの片隅で路上生活を送るさなか、今度は朝鮮戦争が勃発する―。
砲弾が目の前を飛び交った。極寒の冬、凍傷でも死にかけた。望郷の念に駆られるが、帰国の願いがかなわず、自ら命を絶とうとしたこともある。「誰かに生かされてきた。きっと、お母さんの力と思うよ」。最愛の人の記憶を語り始めると、その目にたちまち涙がたまった。(編集委員・田中美千子)
(2025年6月11日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 友田典弘さん(前編) 爆心地から460メートル 母と弟失う