[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 友田典弘さん(前編) 爆心地から460メートル 母と弟失う
25年6月11日
「アボジ」と朝鮮半島へ
大阪に暮らし、六十余年になる友田典弘(つねひろ)さん(89)。幼い頃の幸せな思い出は全て、広島にあるという。広島市大手町(現中区)に生まれ育った。元安川が格好の遊び場。浅瀬で泳ぎ、カワエビを捕った。弟の幸生さんを連れ、貸しボートにも乗った。「こぎ方はお母さんが何度も教えてくれたよ」
母タツヨさんは洋服の仕立屋を営んでいた。店は繁盛していたらしい。7歳の時に父多市さんを病気で失ったが、暮らし向きは悪くなかったという。
母は兄弟にも常に、自ら手がけた上等な服を着せた。忙しくても時間を割き、自転車の乗り方も教えてくれた。
1945年夏の初め、友田さんは広島県北に学童疎開したが、現地の生活になじめず、食事が喉を通らなくなった。この時も、母がすぐに迎えに来た。「怒りやせん。優しかった」。しかし、すぐに別れが訪れる。
8月6日、友田さんは弟と学校へ。エンジン音が聞こえ、校門前で空を見上げていたら、上級生に「早う来んか」と腕をつかまれた。その手を振り払い、げた箱のある西校舎の地下へ駆け込んだ直後だ。強烈な光が走り、爆風に飛ばされた。居合わせた級友とはい出ると、校庭には黒焦げの子どもたち。焼け残った靴に「トモダ」と書かれた弟の遺体もあった。
爆心地から460メートル。登校していたとされる児童・教職員約160人の大半は爆死し、鉄筋の西校舎地下で児童3人が生き残った。今も健在は友田さんだけ。「木造校舎は吹っ飛び、遠くの山が見えた」と証言する。
人波を追い、逃げるほかなかった。級友ともはぐれ、比治山(現南区)の防空壕(ごう)のような場所で2晩を過ごす。3日目。壕をのぞいた兵隊に乾パンと水をもらって自宅を目指したが、母に買ってもらった自転車の残骸が見えただけ。元安川には膨れ上がった無数の遺体が浮いていた。「あの中にお母さんもおったと思う。見つけてあげられんかった」
その日は市役所に足が向き、運び込まれていた何十体もの遺体のそばで眠った。翌朝のこと。「つねちゃん」と声をかけられた。一家に間借りしていた朝鮮人男性。「金山」と名乗っていた。この日から2人のバラック暮らしが始まる。
男性は既に帰国を考えていたらしい。9月17日に広島を襲った枕崎台風がきっかけとなった。すがってくる少年を放ってはおけなかったのだろう。2人のバラックも水浸しになり、男性は友田さんを連れ、列車で西方の港へ向かう。
友田さんは言いつけ通り、大型船に乗り込んだ後も日本語を一切使わなかった。代わりに男性をこう呼んだ。「アボジ(お父さん)」。警備の目をかいくぐり、たどり着いた先はソウル。男性の兄一家の家だった。(編集委員・田中美千子)
(2025年6月11日朝刊掲載)
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