被爆80年託す想い 今道量友さん 倒れた人 またいで逃げた 苦悩の記憶 「伝えねば」
25年7月28日
広島と長崎の両方で原爆に遭った「二重被爆者」の今道量友(かずとも)さん(91)=愛知県犬山市。新聞社から届いたアンケートには、記憶の風化への焦りをつづった。「90歳に成り、あとがありません」。何とかせねばと、取材にも応じてくれたのだという。
長崎市生まれ。1943年ごろ、三菱重工業に勤めていた父が広島造船所の開所に向けた転勤となり、一家で広島市南観音町(現西区)の社宅に移った。父はすぐに召集され、母と弟3人との5人暮らし。「子どもらしい遊びもしたんでしょうが、広島で思い出すのはやっぱり原爆なんだ…」
45年8月6日朝、母は勤めていた近くの寮の炊事場へ。弟3人は社宅に残り、今道さんは一人、天満国民学校(現西区の天満小)へ向かっていた。
突然、爆風に吹き飛ばされた。学校に急いだが、校舎が崩れ落ちている。近くの川辺には息も絶え絶えの人たち。服がぼろぼろになっていると思ったら、それは焼かれた皮膚だった。幸い、家族に大きなけがはなかったが、母に言われて初めて、自分の脚にできた火ぶくれに気付いた。
母の決断は速かった。長崎の里を目指し、8日朝には己斐駅(現西区)へ向かう。「畑に積まれた遺体の山を横目に歩いた」と今道さん。列車は何度か止まり、9日、長崎市の浦上駅手前で降ろされた。その先の爆心地一帯を歩いて通らねばならなかった。
大勢の人が倒れていた。軍人や軍馬も。水を求める声も聞いた。なのに何もできなかった。「それどころか、生きるか死ぬかの人をまたいで逃げたんだ」。その記憶に後々まで苦しめられた。
復員した父が合流し、45年11月には広島へ戻ることになった。その道すがら、被爆後に体調を崩した七つ下の弟が息絶えた。今道さんは放射線の影響を疑う。自らも、白血病の発症を案じ続けてきたという。
広島の社宅に戻ると、今道さんは学校にほとんど通わず、三菱の下請けで働いた。溶接工として腕を磨き、20代で大阪の企業に就職。国内外の現場で腕を振るってきた。
「伝えねば」との思いが強まったのは、年を重ねてからだ。一昨年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に証言を求められ、迷った末、収録に応じた。語り始めると思いはあふれ、ウクライナ情勢を念頭に訴えた。「国と国とが人殺しをやってるんですよ。日本の国も考えてくれないと。目と鼻の先に危険が迫っているんですよ」。今も同じ危機感を抱く。
広島には、やはり二重被爆者の弟2人が暮らすが、最近は会いに行けていない。長旅に自信がなくなってきたという。二つの式典はテレビで見守る。報道にもくぎを刺した。「私たちのような悲惨な状況にならんようにと思うんです。きれい事だけじゃなく、核の怖さや戦争のむごさ、犠牲者の上に今があることを若い人に伝えてください」(編集委員・田中美千子)
(2025年7月28日朝刊掲載)
被爆80年託す想い 2度も見た地獄 広島・長崎で被爆
長崎市生まれ。1943年ごろ、三菱重工業に勤めていた父が広島造船所の開所に向けた転勤となり、一家で広島市南観音町(現西区)の社宅に移った。父はすぐに召集され、母と弟3人との5人暮らし。「子どもらしい遊びもしたんでしょうが、広島で思い出すのはやっぱり原爆なんだ…」
45年8月6日朝、母は勤めていた近くの寮の炊事場へ。弟3人は社宅に残り、今道さんは一人、天満国民学校(現西区の天満小)へ向かっていた。
突然、爆風に吹き飛ばされた。学校に急いだが、校舎が崩れ落ちている。近くの川辺には息も絶え絶えの人たち。服がぼろぼろになっていると思ったら、それは焼かれた皮膚だった。幸い、家族に大きなけがはなかったが、母に言われて初めて、自分の脚にできた火ぶくれに気付いた。
母の決断は速かった。長崎の里を目指し、8日朝には己斐駅(現西区)へ向かう。「畑に積まれた遺体の山を横目に歩いた」と今道さん。列車は何度か止まり、9日、長崎市の浦上駅手前で降ろされた。その先の爆心地一帯を歩いて通らねばならなかった。
大勢の人が倒れていた。軍人や軍馬も。水を求める声も聞いた。なのに何もできなかった。「それどころか、生きるか死ぬかの人をまたいで逃げたんだ」。その記憶に後々まで苦しめられた。
復員した父が合流し、45年11月には広島へ戻ることになった。その道すがら、被爆後に体調を崩した七つ下の弟が息絶えた。今道さんは放射線の影響を疑う。自らも、白血病の発症を案じ続けてきたという。
広島の社宅に戻ると、今道さんは学校にほとんど通わず、三菱の下請けで働いた。溶接工として腕を磨き、20代で大阪の企業に就職。国内外の現場で腕を振るってきた。
「伝えねば」との思いが強まったのは、年を重ねてからだ。一昨年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に証言を求められ、迷った末、収録に応じた。語り始めると思いはあふれ、ウクライナ情勢を念頭に訴えた。「国と国とが人殺しをやってるんですよ。日本の国も考えてくれないと。目と鼻の先に危険が迫っているんですよ」。今も同じ危機感を抱く。
広島には、やはり二重被爆者の弟2人が暮らすが、最近は会いに行けていない。長旅に自信がなくなってきたという。二つの式典はテレビで見守る。報道にもくぎを刺した。「私たちのような悲惨な状況にならんようにと思うんです。きれい事だけじゃなく、核の怖さや戦争のむごさ、犠牲者の上に今があることを若い人に伝えてください」(編集委員・田中美千子)
(2025年7月28日朝刊掲載)
被爆80年託す想い 2度も見た地獄 広島・長崎で被爆