被爆80年託す想い 姜周泰さん 原爆と民族差別 心に傷 家族分断 苦しみ考えて
25年7月30日
今も忘れない。終戦翌年の1946年春、姜周泰(カン・ジュテ)さん(86)=大竹市=は国民学校の入学式に臨んだ。一張羅の白いチマチョゴリを着た母に手を引かれ、うれしさを胸に校門をくぐった。でも、すぐに周りの刺すような視線に気付いた。「冷たい目でした。何も悪いことをしていないのにと、悲しかった」。原爆被害と民族差別。母と共に二重の苦しみを味わってきた。
両親は姜さんが生まれる前、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島から生活の糧を求め、海を渡った。宇部市の炭鉱で働いていた父はぜんそくを患い、姜さんが5歳の時、一家で広島市皆実町(現南区)へ移った。母は自宅で食堂を営み、9歳上の長兄も鉄工所で働いて生計を立てていた。
45年8月6日朝。姜さんは友人の家に向かっていた。突然、目の前が真っ暗に。頭に大量の瓦が落ちてきて、血だらけになった。自宅は倒壊。母が必死に父と弟を引っ張り出していた。
長兄は東千田町(現中区)付近で被爆した。朝8時に広島県産業奨励館(現中区の原爆ドーム)で用務を済ませ、自転車で職場へ戻る途中だった。小柄な母が抱えるようにして連れ帰った。
「助かっただけでも幸運」と姜さんは言う。ただ母と救護所に行くと追い返された。「朝鮮人につける薬はない」と。三つ下の弟は年の瀬に体調を崩し、他界した。体中に紫斑が出ていた。
「ピカのチョーセン」「ニンニク臭い」。姜さんは学校で陰口をたたかれ、悔しかった。日本で生まれ育ち、当時は朝鮮人との自覚も薄かった。「隠したい気持ちもあって」。ニンニクや唐辛子入りの食べ物を避け、日本名で学校に通った。母は食堂を再開し、学費を稼いでくれた。
高校卒業後、一度は広島市内の食品会社に就職した。昼休み、近くの公園で朝鮮語を話すグループを見かけ、新鮮な驚きを覚えた。「隠さずに幸せに暮らしている人もいるんだ、と」。「朝鮮人の自覚」が芽生えた。会社を辞めて東京の教員養成所へ。広島に戻り、朝鮮学校の教員になった。
一方、母は日本政府の閣議了解を踏まえ日朝の赤十字が進めた北朝鮮への帰還事業に引きつけられたようだ。長兄と戦後生まれの弟も同じ道を選んだ。父は既に他界。結婚して家庭を築いていた姜さんと二つ上の次兄は日本に残ると決め、72年に3人を送り出した。
翌73年、姜さんは在日朝鮮人の訪問団に加わり、初めて北朝鮮へ。母は手料理を振る舞ってくれた。別れ際に「また来てね」と号泣された。それが最後となった。79年に母は病死。72歳だった。長兄と弟も90年代に相次ぎ逝った。
多くの朝鮮・韓国人が日米の戦争で被爆し、差別に苦しみ、日朝に分断される家族も生まれた―。なぜなのか考えてみてほしいと、姜さんは言う。「日本の植民地政策をはじめ、世界の国々が道を誤ると、市民が巻き込まれるんです」
北朝鮮の被爆者は今なお、被爆者援護から置き去りにされている。「せめて私たち、朝鮮・韓国人被爆者の歩みに目を向けてほしい」。姜さんは力を込める。もう二度と過ちを繰り返さないように。(馬上稔子)
(2025年7月30日朝刊掲載)
被爆80年託す想い 北朝鮮へ渡った母 「あのとき行かせなければ」
両親は姜さんが生まれる前、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島から生活の糧を求め、海を渡った。宇部市の炭鉱で働いていた父はぜんそくを患い、姜さんが5歳の時、一家で広島市皆実町(現南区)へ移った。母は自宅で食堂を営み、9歳上の長兄も鉄工所で働いて生計を立てていた。
45年8月6日朝。姜さんは友人の家に向かっていた。突然、目の前が真っ暗に。頭に大量の瓦が落ちてきて、血だらけになった。自宅は倒壊。母が必死に父と弟を引っ張り出していた。
長兄は東千田町(現中区)付近で被爆した。朝8時に広島県産業奨励館(現中区の原爆ドーム)で用務を済ませ、自転車で職場へ戻る途中だった。小柄な母が抱えるようにして連れ帰った。
「助かっただけでも幸運」と姜さんは言う。ただ母と救護所に行くと追い返された。「朝鮮人につける薬はない」と。三つ下の弟は年の瀬に体調を崩し、他界した。体中に紫斑が出ていた。
「ピカのチョーセン」「ニンニク臭い」。姜さんは学校で陰口をたたかれ、悔しかった。日本で生まれ育ち、当時は朝鮮人との自覚も薄かった。「隠したい気持ちもあって」。ニンニクや唐辛子入りの食べ物を避け、日本名で学校に通った。母は食堂を再開し、学費を稼いでくれた。
高校卒業後、一度は広島市内の食品会社に就職した。昼休み、近くの公園で朝鮮語を話すグループを見かけ、新鮮な驚きを覚えた。「隠さずに幸せに暮らしている人もいるんだ、と」。「朝鮮人の自覚」が芽生えた。会社を辞めて東京の教員養成所へ。広島に戻り、朝鮮学校の教員になった。
一方、母は日本政府の閣議了解を踏まえ日朝の赤十字が進めた北朝鮮への帰還事業に引きつけられたようだ。長兄と戦後生まれの弟も同じ道を選んだ。父は既に他界。結婚して家庭を築いていた姜さんと二つ上の次兄は日本に残ると決め、72年に3人を送り出した。
翌73年、姜さんは在日朝鮮人の訪問団に加わり、初めて北朝鮮へ。母は手料理を振る舞ってくれた。別れ際に「また来てね」と号泣された。それが最後となった。79年に母は病死。72歳だった。長兄と弟も90年代に相次ぎ逝った。
多くの朝鮮・韓国人が日米の戦争で被爆し、差別に苦しみ、日朝に分断される家族も生まれた―。なぜなのか考えてみてほしいと、姜さんは言う。「日本の植民地政策をはじめ、世界の国々が道を誤ると、市民が巻き込まれるんです」
北朝鮮の被爆者は今なお、被爆者援護から置き去りにされている。「せめて私たち、朝鮮・韓国人被爆者の歩みに目を向けてほしい」。姜さんは力を込める。もう二度と過ちを繰り返さないように。(馬上稔子)
(2025年7月30日朝刊掲載)
被爆80年託す想い 北朝鮮へ渡った母 「あのとき行かせなければ」