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連載・特集

ヒロシマの記録-遺影は語る 細工町

爆心直下 裂けた天地
※2000年2月21日付け特集などから

■記者 西本雅実、野島正徳、藤村潤平

 史上初めて投下された原爆は1945年8月6日、広島市細工町29番地の2、島病院の上空約600メートルでさく裂した。現在の中区大手町1丁目、原爆ドームの南東160メートルに当たる。米軍が「リトル・ボーイ」と呼んだ原爆は、核分裂性物質ウラン235からなり、当時最大の戦略爆撃機B29が一度に3000機ほど飛来し、TNT火薬15キロトンを投下したのに匹敵するエネルギーを放った。

 火球は直径280メートルに膨れ上がり、熱線と放射線が降り注ぐ。直下の地表面の温度は3000・40000度に達し、秒速440メートルの爆風が津波のように起き、市内をうねった。「あの日」をとらえた原民喜の詩の一節を引けば、広島は、人類は「崩れ堕(お)つ 天地のまなか」をみた。

 島病院長の島薫さん(77年死去)は手術のため前日に出張していた広島県世羅郡甲山町から六日夜戻り、目の当たりにした光景を、回想録にこう述べている。

 「玄関の両側の2本のコンクリートの柱以外には何物も残っていなかった(略)病院のまわりの街路に多くの人々が死んでいた。しかし私がだれと分かったのはただ一人であった」。爆心地一帯では、米戦略爆撃調査団の報告書(46年作成)も記すように、原爆は人を「原形をとどめぬほどに炭化させた」からだ。

 2000年最初の「遺影は語る」は、爆心直下の細工町の住民と、28番地にあった広島郵便局の勤務者・動員学徒一人ひとりの被爆死を追った。

 住民世帯は40軒足らずながら、細工町は近世から続く2つの寺と、4つの医療機関、洋酒を扱った食料品問屋、広島草分けの理髪院…とデルタの街に今昔の彩りを醸し出していた。それがすべて破壊された。遺族は、肉親の最期の手掛かりすら奪われた。

 「父と弟の遺骨は見つからず、一人残った私は下宿先で家庭教師をしながら1年間、広島を歩き回りましたが…」。東京都に住む河野(旧姓岸本)美智子さん(70)が、再び広島に足を向けたのは両親と弟の33回忌だったという。

 痕跡のない「爆心直下」の遺族を捜し、住民72人の被爆死状況(建物疎開前・後の居住先、「猿楽町」「中島本町2」編で掲載した9人を含む)をつかみ、54人の遺影の提供と確認を得た。「崩れ堕ちた天地のまなか」で亡くなった人たちである。

細工町の死没者名簿1
細工町の死没者名簿2
島病院 ゼロメートル地点

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