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連載・特集

復興の風 1951年 平和記念公園 一心 街づくりのつち音

基盤整備に7000人就労

 かっぽう着にズック姿。着古した軍服に地下足袋をはいた男性もいる。原爆資料館(広島市中区)は、撮影した1951年に着工。足場が掛かっている。

 平和記念公園一帯でつるはしを振り、もっこを担いだ作業員の中には、失業対策事業で集まった人々も多かった。家族や職場を奪われた被爆者、戦争で夫を亡くした女性―。広島市の記録では、平和記念公園を含む市内の基盤整備に携わった同事業の就労者は60年代初めの最盛期で7千人を超えた。

 「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」。被爆地が目指すべき都市像を定めた「広島平和記念都市建設法」は49年8月6日に公布された。生活の再建に加え、働く人々に平和都市の実現をかなえる共通の目標が芽生えた。それは、街の将来像を模索する東日本大震災の被災地の姿とも重なる。

 「みんな原爆が落とされた街を、復興させたい一心だった」。西区の広木昭代(てるよ)さん(85)はそう振り返る。57年、同事業で平和記念公園一帯の整備作業に加わった。「目の前が真っ暗でも、人々が目標を持ってつながれば望みは持てる」と被災地の再生を願う。

 長女をおぶったまま、整地や護岸の石積みに励んだ。原爆で亡くなった人の骨を見つけるたび、きれいに洗って手を合わせた。

 93年に同事業が終わるころまで、市内各地の現場を巡った。いまも市シルバー人材センターに登録し、平和記念公園内の清掃を続けている。

 「誇りって言うとおこがましいが、街をつくり上げてきた愛着がある。原爆で亡くなった人のためにも、生涯をここで働きたい」と広木さん。そう話しながら、日焼けした腕をさすった。(野田華奈子)

(2012年7月5日朝刊掲載)

復興の風 1952年ごろ 原爆資料館 姿現す平和の「軸線」

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