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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <2> 母の背中

畑仕事に内職 働きづめ

夫の墓前が安息の場所

 広島市安佐南区川内6丁目の共同墓地。近くの蓼(たで)英明さん(70)は「こまい体でよう働いてくださった」とつぶやき、7年前に99歳で亡くなった母キヌヨさんが眠る墓の前で、目を閉じた。

 母の人生は、「あの日」を境に一変した。生きることが試練となった。49歳だった夫の栄次郎さんを原爆に奪われた。川内村国民義勇隊の一員として爆心地に近い中島新町(現中区中島町)で建物疎開に当たっていた。

 16歳の長兄清次さんは旧糸崎鉄道学校(三原市)に入学し、家を出ていた。翌7日。母は7歳の次兄照夫さんに留守番を言いつけ、三男で2歳だった英明さんをおぶって市街地に入った。

 「背中でぐずる私をあやしながら歩き回り、死体だらけの川に父の姿を捜したらしい」と英明さん。3日間通ったが、何も見つけられなかった。

 母はとにかく、働き者だった。朝から夜まで畑で額に汗して、息子3人を育てた。冬は大根、夏はゴボウ。英明さんは小学校に上がるまで、お寺で子守をしてもらった。

 迎えはいつも最後。帰り道は真っ暗だった。雨の日。「きょうは家にいるだろう」と学校から駆け足で戻っても、母は畑にいた。

 給食費の集金日の朝。お金が用意されていないのが悲しくて、英明さんは泣いて駄々をこねた。ふいと家を出た母は数時間後、金を工面してきた。「今から学校に行け、と。息子に情けない思いをさすまいと誰かに借りてくれたんじゃろう」

 夜は内職で日よけのよしずを編んだ。「人さまに迷惑を掛けるなよ」が口癖。「ひもじい思いをさせたら悪さをすると思うたのか、物がないなりに食わせてくれた」。小麦粉を水に溶いて焼いただけのおやつも、ごちそうだった。

 何の趣味も持たなかった母。ただ毎日、自宅裏の夫の墓に参ることは欠かさなかった。季節の野花を手向け、一心に手を合わせた。「遺骨のない空っぽの墓が唯一、心休まる場所だったのかも」と英明さん。「おやじに語りかけ、その日その日をしのいどったんじゃろうよ」

 「借金してでも進学させる」と言ってくれた。英明さんは中学校を卒業後、鋳物工場に就職。家計を支える道を選んだ。3千円足らずの初月給を渡すと喜んでくれた。

 その後、英明さんは鉄工所に40年間勤めた。定年退職した今も、依頼があれば現場に出る。「よう働くのは母さん譲りよ」

 兄2人も他界し、共同墓地に移した一家の墓は今、英明さんが守る。3人の娘と6人の孫に恵まれたが「私がおらんようになったらどうなることか」。ふと不安が口をつく。「孫子の代まで守ってほしい。母さんが大事にした墓じゃから」。父と母の名前を刻んだ墓碑をいとおしむように水で清めた。(田中美千子)

(2013年7月8日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <3> 葛藤

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