×

連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <5> つなぐ記憶

父母の歴史 風化させぬ

村の歩み 資料で後世へ

 9日夜、広島市安佐南区川内6丁目にある浄行寺の本堂に男性9人が集まった。広島県川内村(現在の川内地区)で組織された国民義勇隊の遺族会の役員会。毎年8月6日の原爆の日、平和記念公園(中区)の「義勇隊の碑」前で開く合同慰霊式の打ち合わせをするためだ。

 南に約10キロ離れた中島新町(現中区中島町)で建物疎開に従事した約200人が、米国の原爆投下で全滅して68年。一家の大黒柱を失った村で生き抜いてきた人たちの多くが他界した。「どうやって語り継いでいくべきか」。焦る気持ちを口にしたのは、役員で最年長の道原(どうばら)博さん(77)だ。

 「代替わりで記憶の風化が進んどる」「今の子どもに昔の話がぴんとくるじゃろうか」。他の8人も言葉をつないだ。

 父辰信さんは建物疎開で出た木材を運搬中、爆心地から南東約1キロの富士見町(現中区)で被爆した。あの閃光(せんこう)を当時9歳の道原さんも浴びた。胸膜炎の治療で爆心地から北1・5キロの横川町(現西区)の病院にいた。爆風で倒れた建物の下敷きになったが、けがは軽かった。

 父は2週間後、家で息を引き取った。43歳だった。臨終の言葉は「博、後は頼む」。

 残されたのは母シナヨさんと博さん、3歳と生後9カ月の妹2人。田畑1反(約0・1ヘクタール)では暮らしが成り立たない。母は家で畳表を織り、復興事業の日雇いで工事現場にも出た。

 「早く、母に楽をさせてあげたい」。道原さんは中学校を出ると三菱重工業の技術者養成校を経て、祇園町(現安佐南区)の広島精機製作所の工場で働いた。結婚後も一緒に暮らした母。息子と娘に苦労話をする姿を覚えている。2007年、96歳で亡くなった。

 役員会から自宅に戻った道原さんを、孫の彩乃さん(14)が迎えた。地元の城南中3年生。この日、学校の全生徒で折り鶴を作ったという。生徒代表が8月6日、碑前に届ける。

 「大変だったんでしょ、あの時代は。私なら耐えられん」と彩乃さん。「ひいおばあちゃんのことをもっと知りたい」と言ったのが、道原さんは何よりうれしかった。

 浄行寺での役員会では、一つの進展があった。義勇隊で亡くなった人と村の歩みに関する資料をまとめることを申し合わせた。「父たちを奪い、母たちに苦労を強いた原爆。川内には忘れてはならない歴史がある」。道原さんは力を込めた。(石井雄一)=第1部おわり

(2013年7月11日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <1> 広島菜

年別アーカイブ