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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <2> 白梅会

苦難耐え 互助の花開く

絆つづるノート 後世に

 広島市中区の原爆資料館に、古びた1冊の大学ノートが保管されている。原爆や戦争で夫を亡くした広島県川内村(現広島市安佐南区)の女性たちの互助組織「白梅(しらうめ)会」の歩みがつづられている。

 原爆投下から4年後の1949年に結成された白梅会。名前は、寒さに耐え、美しく咲く白梅になぞらえた。きちょうめんな字が、最初の3年の活動を記す。

 「二月四日、結成式。多数決にて白梅会と命名される」

 村には、原爆に夫を奪われた70人以上の妻が残された。「働きづめの毎日。仲間との時間が唯一の楽しみだったようです」。安佐南区川内5丁目の高崎雪子さん(81)は嫁いでから44年間、一緒に暮らした義母ハルさんを思い返す。

 ハルさんは95年、92歳で亡くなった。白梅会の結成当初からの世話役で、54年から20年間は会長も務めた。

 夫の勝さんは、国民義勇隊員として爆心地近くの中島新町(現中区)で建物疎開作業中に被爆死した。51歳だった。ハルさんは何日も捜し歩いた。でも遺体は見つからなかった。

 一家の大黒柱を失った上に、戦後の農地改革で約3ヘクタールあった田畑の多くを手放した。18歳で海軍から復員した長男豊さん(86)と農作業に追われる日々。そして娘2人を嫁に出した。

 「九月四日、潮干狩り。平素の苦労も忘れ、同じ境遇の者同士、何の気兼ねなく貝をほる」

 白梅会は「たまには広い場所で気を晴らそう」と、潮干狩りやハイキングに出掛けた。「寂しい時、山や海で思い切り『お父ちゃーん』と叫んだらええ」。ハルさんは仲間をそう励ました。

 ノートには、会が経済的にも妻たちを支えた記載が残る。ミシン縫いなどの内職をあっせん。村や篤志家からの寄付を積み立て、生活資金を融通した。暮らしに役立つよう「靴下修理講習会」「生活改善研究会」なども重ねた。

 白梅会はいま、川内地区母子寡婦福祉会として活動する。ノートは3年前、前会長の石瓶美奈子さん(76)が資料館に託した。「女たちが支え合って生き抜いた証し。確実に後世へ引き継ぎたくて」

 もう一つ、川内には白梅会の足跡が残る。川内小の校舎裏にある「川内村戦没者戦災死者供養塔」。初代会長の西村千代乃さん(83年に89歳で死去)たちが募金を呼び掛け、53年に建てた。施主は「川内村未亡人白梅会」。ハルさんの名も刻んである。

 毎夏、川内地区の盆踊りに合わせ、老人会が碑前祭を営む。ことしは8月10日。雪子さんは欠かさず参列している。「地域住民が集う場。白梅会が築いた『助け合いの精神』も引き継ぎたい」との願いとともに。(田中美千子、石井雄一)

(2013年7月26日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <3> 浄行寺

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