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連載・特集

韓国のヒロシマ70年 陜川の今 <上> 資料館建設 被爆者援護 広く訴え

 韓国慶尚南道の山あいにある陜川(ハプチョン)郡の人たちは、貧困に苦しんだ日本の植民地時代、広島に渡り原爆に遭った。その数の多さから「韓国のヒロシマ」とも言われる。郷里に帰った後は長らく、日本政府の被爆者援護施策の外に置かれた。被爆70年の年の瀬に現地を訪れ、記憶を受け継ぐ試みを追い、被爆地の役割を探った。(水川恭輔)

 韓国第2の都市、釜山市から車で2時間ほどの場所に陜川郡はある。人口約5万人。半世紀で約4分の1になったという。過疎化にあえぐ中国山地にも似たこの地で2016年、21億ウォン(約2億1千万円)を投じる郡の「原爆被害資料館」の建設事業が動きだす。被爆2世でもある、首長の河敞喚(ハ・チャンファン)郡守(66)は「被爆者やその家族の苦しみを、韓国でも大勢の人に知ってもらいたい」と、その意義を語る。

17年6月完成予定

 韓国原爆被害者協会陜川支部などの1970年代の調査では、確認できただけで3867人の被爆者が郡内に住んでいた。老いが進み、子どもたちを頼ってソウルなどへ移り住む被爆者もおり、支部が今把握するのは約420人。ことし8月6日に支部や大韓赤十字社などが郡内で営んだ原爆犠牲者の追悼式の参列は、被爆者や支援者ら約350人だった。

 郡によると、韓国内に原爆に関する公設の資料館はない。17年6月に完成予定の資料館は、広島に渡った背景である日本の植民地下での貧困や徴用・徴兵から、被爆の実態、帰国後の後遺症や窮状までを広く国内に向けて伝えることになる。そこには記憶の継承にとどまらない狙いがある。「国民の原爆被害への関心を高め、被爆者や子、孫の支援に向けた国の法律を成立させたい」。そう河郡守は言う。

歴史考える契機に

 「被爆者はどこにいても被爆者」。日本の最高裁は9月、海外に住む被爆者(在外被爆者)にも被爆者援護法に基づく医療費の全額支給を認めた。政府は来年1月に判決に沿った新制度を始める。最後まで残っていた日本国内外での援護格差は解消へ向かい、陜川でも歓迎されている。

 一方、韓国内では地域間の援護格差が残る。陜川郡は独自に被爆2、3世を対象にした健康不安のカウンセリングや運動指導を展開。親である被爆者の心配の声に応えた施策という。慶尚南道も12年に原爆被害者支援条例を制定し、郡の施策を財政面で後押しする。

 韓国内唯一の被爆者養護施設も郡内にあり、待機者が100人以上いる。郡で被爆者援護を担当する諸葛(チェガル)鐘容(チョンヨン)福祉政策係長は「国の法律ができれば、被爆者が今より等しく支援を受けられる」と訴える。

 米軍による原爆投下は日本の起こした戦争の帰結であり、私たちとは無縁―。こんな歴史認識が根深い韓国はことし、植民地支配からの「解放70年」でもあった。

 河郡守は、両親ら親族10人以上が広島で被爆。広島県立工業学校(現県立広島工業高)1年だった、伯父の長男の河昶斗(チャンドゥ)さんは爆心地近くの建物疎開作業に動員され、亡くなった。「伯父は『原爆』の言葉を聞くのを死ぬまで嫌がった。原爆について日本に投下されたという事実だけでなく、韓国人の戦争被害の歴史としても考えるきっかけになれば」

(2015年12月16日朝刊掲載)

韓国のヒロシマ70年 陜川の今 <中> 記憶の継承 苦難の半生越え証言

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