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ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <2> 全国調査の壁

全容把握 消極的な国

戦争責任や補償懸念か

 青木信芳さんと妻富美さんの一家は、5人のうち4人が今年春まで、広島市の原爆被爆者動態調査のデータから漏れていた。「何らかの記録に名前が載っている、と思い込んでいたんです」。信芳さんのおい青木久之さん(73)はそう語りながら、富山市内の自宅に立つ慰霊碑を見つめた。

 広島市に原爆死没者名簿を調べてもらおうと、信芳さんのめい金井町子さん(66)が申請したのが「発覚」のきっかけだった。「3年前に広島に観光で訪れたのを機に、ふと思い付いていなかったら…」

 犠牲者名を積み上げる市の作業は、遺族からの申し出に頼っているのが現状だ。とはいえ原爆被害調査の歴史を振り返れば、市が手をこまぬいていたわけでは決してない。

 被爆翌年の1946年、町内会長などの協力を得て市が被害を調べた。地域が壊滅した中で、名前を確認できたのは死者・生死不明者2万6116人。原爆慰霊碑の建設計画が進んでいた51年には、原爆死没者名簿の作成に向けた情報提供を呼び掛けた。碑が完成した52年、最初に納めた名簿は5万7902人分だった。市にとって、取り組みを全国規模で周知することは難しかった。

官民挙げ「復元」

 官民挙げての一大調査もなされた。60年代後半、広島大などが「復元調査」に動きだす。壊滅した爆心直下のかつての街並みを、戸別地図に再現。1軒単位で被害を詳細に記録する試みだった。元住民が集まり、記憶の糸を懸命に手繰り寄せては互いに突き合わせた。市もこの機運に押され、半径2キロ圏に対象を広げての調査に乗り出した。

 青木さん一家が暮らした旧大手町3丁目は、爆心地から近いため調査対象に入っていたものの、終戦間際に転入してきた一家を詳しく知る元住民はいなかったようだ。

 8年間で半径500メートル以内の95%以上を地図として「復元」し、対象世帯の約8割に当たる約2400世帯の被害を確認した。市民参加のたまものだが、全滅した一家や、多くの家族を失った末に広島市を去った世帯はなおも「消息不明」として残った。

 「国家的規模の調査が早急に実施されるよう切に望む…政府当局の絶大な理解と、被爆者のみならず一般国民の十分な協力を得ることによってはじめて成功するものであることを強調しておきたい」。復元調査を率いた広島大の故志水清教授らによる78年刊行の報告書を読むと、その文面から悔しさが伝わってくる。

「補完」との説明

 一方の国は、死没者調査に一貫して消極的だった。敗戦後、原爆を使用した米軍が率いる連合国軍総司令部(GHQ)に占領統治されたという事情はあった。しかし52年に独立を回復して以降も、政府が自ら腰を上げようとはしなかった。

 広島、長崎両市の度重なる要望の末、全国の被爆者健康手帳所持者(当時約36万人)を対象に調査したのは、被爆から40年後の85年だった。家族や知人に死没者がいるかどうか、生きている被爆者に問う内容。全滅一家の遺族の久之さんに調査票は届かなかった。

 国は当時、これをあくまで広島市などによる調査の「補完」だと説明した。国が主体的に被害を明らかにするほど、戦争責任の追及と被害補償の要求が高まりかねない―。被爆地発のうねりが起きて各地の空襲被害者などに波及することを恐れた、ともいわれる。

 「国家的規模」には遠く及ばない調査ではあったが、5551人の広島原爆の死亡者が新たに判明し、うち2520人が「45年末まで」の犠牲者だった。90年、原爆死没者名簿に加えられた。金井さんが市に問い合わせた際、すでに信芳さんの名前だけ記録されていたのは、元の軍関係者がこの時の調査に答えていたからかもしれない。(水川恭輔)

(2019年11月30日朝刊掲載)

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