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ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <4> 「軍都」広島

各地から応召 犠牲に

名簿未登載確認し驚き

 1945年末までの原爆犠牲者数として、広島市が原爆被爆者動態調査を通して名前を把握しているのは今年3月末時点で8万9025人。原爆死没者名簿に新たに登載されたことにより、来年3月末には動態調査にも名前が加わる犠牲者がいる。その遺族に会うため、京都市に向かった。

 待ち合わせ場所に現れた鎌田納(おさむ)さん(74)は、父弥一郎さんの遺影を携えていた。「何も知らずにずっと原爆慰霊碑に手を合わせていたんやと、びっくりして」。今年7月、広島市の原爆死没者名簿へ登載申請した経緯について、驚き冷めやらぬ口調で話した。

 父弥一郎さんの実家は京都市内の呉服店。将来は店を継ぐ予定で、結婚翌年の45年1月に納さんが生まれた。だが、応召して単身で広島の陸軍部隊に。亡き母久さんによると、父と納さんが一緒に過ごした時間はわずかだった。終戦後、軍関係者が遺骨を届けてくれた。27歳だった。

「自動と思った」

 生後7カ月で失った父。納さんは近年、友人が住む縁で広島を毎年のように訪れている。原爆慰霊碑に手を合わせるたび、被爆場所も分からない父の「あの日」を知りたい思いに駆られた。

 そこで、父に関する軍の記録などを求めて京都府庁へ。府を通して広島市に相談すると、遺族は原爆死没者名簿の確認申請ができると初めて知った。

 父の名前は、なかった。

 市から連絡を受け、電話口で「ええっ」と声を上げた。「国や府が死没者を自動的に登録しているもんやと思ってた」。母は2010年に亡くなるまで、毎年8月6日は平和記念式典のテレビ中継を見ながら、画面に映る原爆慰霊碑に手を合わせていた。

 市が一般的に示す45年末までの原爆犠牲者「14万人±1万人」という推計値の中で、軍人の死亡は約2万人と推定された。「軍都」ゆえに、全国各地から軍人が集まっていたのだ。したがって非定住者も多く、市はホームページで、45年末までの犠牲者数の実態がはっきりしない理由の一つを「軍関係者の情報が不明」だからと説明する。

 ただ、宇吹暁・広島女学院大元教授は「軍人の情報は民間人よりむしろ多い」と指摘する。国は戦後、旧軍人を優先して援護を進め、その関連資料があるからだ。広島大は70年代、厚生省(現厚生労働省)の旧軍人の援護担当部署から資料約1万7千ページ分の複写を入手。市の動態調査にもデータとして反映された。

 それでも、弥一郎さんの名前はなかった。複写資料は、広島が拠点の中国軍管区の部隊に関する情報が中心だ。弥一郎さんの所属は大本営第2陸軍通信隊。元隊員の手記によると、県外出身者を多く集めて編成された。大本営関係の情報は乏しかった可能性がある。

調査で蚊帳の外

 国は被爆40年の85年、被爆者健康手帳を持つ人に限った死没者調査を実施した。しかし鎌田家のように、家族に生存する被爆者がいない遺族は結果的に蚊帳の外に置かれた。単身で広島にいた軍関係者の遺族はもとより、学童疎開している間に家族を失った子どもなど、自らは被爆していない遺族が持つ情報は、掘り起こし切れていない。

 その空白を1人分、納さんは埋めた。名簿登載を「自動的」と思っている遺族は全国にいるとみる。「広島市の窓口が親身に対応してくれ、ありがたかった。ならば自分も問い合わせようか、という気持ちになる人が一人でも増えてほしい」と願う。(水川恭輔)

(2019年12月2日朝刊掲載)

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