ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <6> 朝鮮半島出身者
19年12月5日
多数犠牲 解明には壁
徴用・徴兵 資料乏しく
「どこかにもっと資料があれば…」。広島市東区にある在日本大韓民国民団(民団)広島県地方本部で、被爆2世の権俊五(クォン・ジュノ)さん(70)が深いため息をついた。韓国原爆被害者対策特別委員会の副委員長を務めている。
1945年8月6日のあの日、日本統治下の朝鮮半島から貧困の中で、あるいは徴用・徴兵されて広島に渡ってきていた多くの朝鮮半島出身者と家族が被爆した。権さんたちは毎夏、平和記念公園(中区)の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前に集い同胞を追悼している。
ただ、韓国・朝鮮人の原爆被害の実態は不明な点が多い。広島、長崎両市が76年に国連に提出した「核兵器廃絶」を求める要請書は、45年中の犠牲者を全体で「14万人±1万人」と推計したが、朝鮮半島出身者について「きわめて明らかでない」と指摘した。
食い違う推計値
44年末の内務省警保局調査によると、広島県全域に8万1863人の朝鮮人がいた。79年に広島、長崎両市が刊行した「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店)は、広島市で2万5千~2万8千人が被爆し、5千~8千人の範囲で死亡したと推測。一方ソウルで結成された韓国原爆被害者協会は72年、広島で5万人が被爆してうち3万人が死亡したとの推定を発表している。
「犠牲者が多かったのは間違いないが、どれも確固とした根拠に基づく数字とまでは言えない」と原爆資料館。4月に館内展示の更新を完了したが、具体的な推計値は示していない。
日韓両政府が全容を調査したことはなく、特に徴用・徴兵に関する原爆被害の公的資料は乏しい。ならば市の情報を、と権さんは市原爆被害対策部に相談した。戦後、被爆した両親の苦労を見てきた自分は「限りなく在日韓国人被爆者の1世に近い立場」。2世として次世代に記憶をつなぐことへの思いは強い。
しかし市の原爆死没者名簿も、原爆被爆者動態調査も、国籍や出身地などの細かい分類はされていない。朝鮮半島出身者の名前を抜き出そうとしても、古い関連資料には「創氏改名」で強いられた日本名が記されている場合がある。日本の植民地支配という歴史の重しが「空白」の解明に影を落とす。
市民が現地調査
そもそも、市がつかんでいない原爆犠牲者も相当いるはずだ。
被爆後も日本で生き続けた人がいた一方で、祖国に渡った被爆者も多い。50年に始まった朝鮮戦争や、日本からの帰還者への差別に直面し、戦後に辛酸をなめた人もいる。さらに「被爆者健康手帳は海外で失効する」とした旧厚生省通達を日本政府が2003年に廃止するまで、在外被爆者は援護の枠外に置かれた。
被爆者が提出する手帳交付の申請書は市にとって、原爆の犠牲になった家族の名前を把握する「情報源」にもなるはずだった。しかし、手帳がないまま死去した人は数知れない。
「市が調べていないのなら、市民にできることはないかと」。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部の中谷悦子支部長(70)は今春、被爆者が多く暮らすことから「韓国のヒロシマ」といわれる慶尚南道陜川(ハプチョン)郡を訪ねた。地元に住んでいた被爆者故鄭基璋(チャン・ギチャン)さんは78年、郡内を訪ね歩いて調査結果をまとめている。
被爆したのは5001人で、約96%が広島だった。153人が日本で45年8月末までに亡くなり、268人が1年以内に死亡していた。「当時の調査票などの一次資料も残っていないか」。確認のため再訪するつもりだ。(水川恭輔)
(2019年12月5日朝刊掲載)
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