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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <7> 北朝鮮の被爆者

国交なく援護対象外

「人道支援 一刻争う」

 広島市の原爆死没者名簿には、新たに死亡が確認された被爆者の名前が毎年書き加えられる。最近になるほど死没者の把握はたやすいと思われるが、なおも記録に刻まれていない人たちがいる。その最たるが日本と外交関係のない北朝鮮に住む被爆者だ。

日本政府に憤り

 朴栄祥(パク・ヨンサン)さん(76)が安佐南区の自宅で、弟の故万祥(マンサン)さんについて語ってくれた。北朝鮮の清津(チョンジン)に住んでいた。「援護から置き去りでした。原爆死没者名簿にも当然、名前はありませんよ」。日本政府への憤りを吐露した。

 父は現在の韓国慶尚南道陜川(ハプチョン)郡生まれ。植民地支配下の生活苦から広島に渡った。

 1945年8月6日の早朝、市郊外の自宅で母が万祥さんを出産した。1歳だった朴さんは、父に連れられて府中町の母の実家に食料を受け取りに向かう途中、広島駅近くで被爆。万祥さんも後に母と入市被爆した。

 戦後、父は闇市に米を流したり金属回収をしたりして妻子を養った。「弟はよく勉強ができたが、大学に進学させるだけのお金はなくて」。万祥さんは高校3年生だった63年、北朝鮮に渡った。懸命に学び、医師になった。広島で焼き肉店を営んだ朴さんと両親は、日本から医学書などを届け万祥さんを支え続けた。

 家族の往来が決して自由とはいえなかった中、万祥さんは97年に北朝鮮の被爆者代表団として古里広島を訪れた。当時は旧厚生省が「日本国外では被爆者健康手帳が失効する」という通達を運用していたことから、あえて被爆者健康手帳は申請しなかった。その2年後、突然肝臓を患い50代半ばで亡くなった。

 在外被爆者が「被爆者はどこにいても被爆者」と日本政府を訴えた裁判を経て、2003年に通達は廃止された。しかし日本と国交のない北朝鮮の被爆者の現状は変わらない。政府は被爆者援護法に基づく援護を棚上げしたままだ。

半数近くが死亡

 現地の朝鮮被爆者協会は08年、戦後に北朝鮮へ渡った被爆者が計1911人で、うち382人の生存を確認したとする調査結果を明らかにした。18年に追跡調査できたのは111人で、半数近い51人がすでに死亡していた。被爆者健康手帳を持っていたのは1人だけだったという。

 朴さんは、両親の名前を市の原爆死没者名簿に載せている。被爆者の死亡に伴い遺族が市に手帳を返還する際、登載を希望するか聞かれるからだ。しかし弟については諦めてきた。

 実際には手帳を持たない被爆者の名前も登載可能であることを、つい最近知って驚いた。とはいえ申請に踏み出す気はない。「日本政府が在朝被爆者をほかの被爆者と同等に扱おうとしないまま、名前だけ載っても…」。悔しさをにじませる。

 在朝被爆者は、自分たちが日本の植民地支配と戦争の被害者であり、政府が謝罪と賠償をすべきだと訴える。同時に、一刻を争う課題として「医療を必要とする被爆者への人道支援」から取り組むよう求めている。日朝関係は好転せず、その取り組みへの一歩は見えない。

 「こんな時こそ現状を知り、日本に伝えたい」と原水禁国民会議の訪問団は昨年、北朝鮮で被爆者から聞き取りをした。広島県朝鮮人被爆者協議会の金鎮湖(キム・ジノ)理事長(73)は「被爆者は老い、時間がない」と訴える。援護の空白地域を放置している限り、死没者の名前という「空白」は埋まらない。(水川恭輔)

(2019年12月6日朝刊掲載)

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