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ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <8> 白系ロシア人

亡命一家をほんろう

店の写真に5人の姿

 人と車が行き交う広島市の中心、中区の紙屋町交差点。この近くにかつてあった研屋町(とぎやちょう)の一角に、被爆前まで「純欧風式 ロバノフ洋服店」が店を構えていた。経営は、パーベル・ロバノフさん。1917年のロシア革命に抗して亡命してきた「白系ロシア人」だった。

 「わが家の物干し台から、ロバノフ家の2階にあるシャンデリアが見えました」と隅田正二さん(93)=西区=が懐かしんだ。被爆の前年まで斜め隣に住んでいたご近所さんだ。

 白系ロシア人たちがロバノフ家に集い、食事を囲む姿を時折見た。「民謡でしょうか。合唱もしていました。斉唱しか知らない私たちには新鮮で、美しい歌声に聞き入ったものです」。姉川本君子さん(昨年97歳で死去)は生前「回覧板を届けに行くと、ドアの向こうからバターの香りがした」と語っていたという。

住民9割が即死

 45年8月6日、爆心地から約300メートルの研屋町は一瞬で壊滅した。住民の9割近くが即死だったと言われている。

 親類がロバノフ家の家主で、自身も近所に住んでいた城坂和子さん(84)=中区=は学童疎開していたため助かった。父三村昇一さん(80年に84歳で死去)も外出しており至近での直爆は免れたが、妻と次女を失った。研屋町住民で「原爆犠牲者名簿」を作成し、慰霊祭を行った際、三村さんは「白系露人 ロマ(バ)ノフ 外四名」となど記された原本を寺に託した。

 5人とみられるロバノフ家でかろうじて記録が残るのは、袋町尋常高等小(同区、現袋町小)の36年卒業名簿に「セリギ(セルゲイ)ロバノフ」、保護者欄に「パーベルロバノフ」とある2人だけ。一家がどのように広島にたどり着いたのかも、本当に5人とも被爆死したのかも、全員の名前すらも、明らかでない。

 しかし、セルゲイさんだけ生き残ったという有力情報がある。袋町小で同級生だった福井健二さん(昨年94歳で死去)は、戦後に本通り(同区)でセルゲイさんとばったり会ったという。2009年の中国新聞の取材に「(中国東北部の旧満州)ハルビンにいたと言われた」と答えている。城坂さんは「戦後はニューヨークに渡った、と元住民から20年ほど前に聞きました」と証言する。

移住の可能性も

 真偽を確かめるため、白系ロシア人の歴史に詳しい青山学院大のピョートル・ポダルコ教授を訪ねた。

 亡命者の多くは戦後、米国やオーストラリアなどの第三国へ移住したという。「生き残っていたならニューヨークへ向かっても不思議はない」とみる。「ただ、白系ロシア人被爆者の資料は絶対的に少ない」

 冷戦期、白系ロシア人は共産主義の旧ソ連で「反革命で国民の敵」とされた。祖国を去り、異国の地広島で被災したのは6家族計13人で、うち5人が1945年秋までに死亡したと言われるが、ロシア市民の間でほとんど知られていない。

 広島原爆戦災誌に「白いヒゲのパン屋」と記されているポール・ボルゼンスキーさんは、親交があった住民の手で市の原爆死没者名簿に登載された。広島女学院の音楽教師だったセルゲイ・パルチコフさんは、69年の死去後に遺族が広島を訪れて登載を申請した。

 記録があまりに乏しいロバノフ家にも、死を悼んで名簿に載せようとした遺族や友人はいたのだろうか―。取材を通して一家全員の名前や行方を突き止めることは、できなかった。原爆資料館は今春から、ロバノフ洋服店の店頭に5人が並ぶ写真を常設展示している。その一枚が、確かに生きていた証しを伝えている。(山下美波)

(2019年12月9日朝刊掲載)

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