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ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <11> 級友の消息

「個人情報保護」壁に

行政の積極協力必要

 「人間は二度死ぬと言われる。肉体的な死を迎えた時と、人々の記憶から消えた時。あの世で亡き級友たちに『ずっと忘れず、捜し続けたよ』と伝えられるようにしておきたい」

名簿を「復元」へ

 本川国民学校(現本川小、広島市中区)は爆心地から最も近い学校だ。1945年のあの日、一瞬で焼き尽くされた。その4カ月余り前に卒業した山崎恭弘さん(86)=兵庫県川西市=は、級友の消息をたどり同級生名簿を「復元」する作業を続けている。

 卒業生は旧制中学や国民学校高等科に進んだが、戦争末期で授業はほとんどなく、市内外の軍需工場や畑などに学徒動員されていた。特に、市中心部の民家を壊して防火帯の空き地を造る「建物疎開」の作業に出ていた生徒は多くが被爆死した。爆心地から至近の本川地区も壊滅した。

 広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)1年だった山崎さん自身は体調を崩しており、8月4日から両親と末の弟と一緒に能美島(現江田島市)の知人宅で体を休めていた。6日朝、北の方角に突然「巨大な火の玉」が上がった。「広島が大ごとじゃ」。翌朝、火災の熱がこもる塚本町(現同区土橋町)の自宅に戻った。

 爆心地から約500メートル。焼け跡の客間付近で、姉迪子(みちこ)さん=当時(13)=と弟公資(こうじ)さん=同(7)=の黒焦げの遺体が横たわっていた。来る日も来る日も、弟功四郎さん=同(5)=を捜した。崩れ落ちた隣家の土蔵のがれきを掘ると、小さな骨のかけらが見つかった。同居していた伯母夫妻の遺体は見つからない。親族16人を失った。

30人以上が不明

 その後山崎さんは京都大に学び、光学技術の専門家として旧通産省の研究所に勤めた。名簿作成に踏み出したのは、73歳だった2006年。戦後に連絡が取れなくなった友人を捜す、広島高等師範付属中の同級生の姿に心を動かされた。

 自分がすべきことは―。母校の本川小に問い合わせると、被爆当時の資料は焼失していると言われた。ならば、と心に決めた。

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(同区)に登録された死没者情報や遺影、中学・高校の同窓会名簿、県動員学徒犠牲者の会が1968年に発行した「動員学徒誌」などを徹底的に調べた。居所をつかんだ同級生に連絡し、情報を募った。

 同級生の間で共感の輪が広がり、8年前には同窓会も開いた。これまでに生存者32人、被爆死を含む物故者107人の計139人の消息をつかんだ。しかし、少なくとも30人以上はいまだに生死不明という。

 「個人情報」の壁にもぶつかっている。同級生たちが進学した広島市内の中学・高校の同窓会に相談しても、同窓会名簿の閲覧は年々難しくなっている。

 決め手はもうないのか。記者が山崎さんの意をくんで本川小に照会すると、本川国民学校高等科の犠牲者名簿があったとの返答を得た。しかし閲覧は「犠牲者の名前と住所などの個人情報が記されており、不可と市教委が判断した」。

 目を患う山崎さんは、すでに視力をほとんど失った。妻英子さん(82)が夫の「目」となり、ささいな情報でも逃すまいと、今日も原爆に関する情報にアンテナを張り巡らせる。「全員が分かるまで、これは未完の名簿です」と、なおも友の消息を追う。

 行政が、このような草の根の取り組みにもっと協力する手だてはないのだろうか。死没者の名前を調査・収集し続ける広島市にとっても、山崎さんが集めた情報は新たな手掛かりになるはずだ。(山下美波)

(2019年12月12日朝刊掲載)

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