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連載・特集

[戦後75年 二つの被爆地 西日本新聞との共同企画] 建物・遺構 保存に苦心

長崎 「点」つないで国史跡

広島 「支廠解体」案先送り

 広島と長崎は今年8月、被爆75年の原爆の日を迎える。被爆者の歩み、市民活動。核兵器廃絶の発信方法―。お互いの現状や課題を意外と知らないでいるのではないだろうか。二つの被爆地に拠点を置く中国新聞と西日本新聞が、共通する事象(テーマ)をそれぞれの視点で描く「共同企画」を掲載する。初回は、原爆の爆風や熱線で傷みながら今も両市に残り、「物言わぬ証人」としてあの日の惨禍を伝える「被爆建物」「被爆遺構」を取り上げる。(中国新聞・新山京子、西日本新聞長崎総局・華山哲幸)

 長崎市の上空約500メートル。原子爆弾がさく裂した直下、黒い御影石が立つ「原爆落下中心地碑」と周辺エリアは、国史跡になっている。倒壊を免れた旧城山国民学校校舎、一本足で立つ山王神社二の鳥居、浦上天主堂の旧鐘楼、旧長崎医科大の門柱―。爆心地に四つの遺構を加えた「長崎原爆遺跡」として2016年に指定された。

 それは裏を返せば、爆心地近くに1棟丸ごと保存されている被爆建物がない、ということでもある。

 市が史跡指定を目指し始めた当初、文化庁の担当者は「残されているのはごく一部だ。一つ一つの規模が小さい」と後ろ向きな反応だった。確かな被爆の生き証人だが、国が乗り出すほどのインパクトには欠ける、と市は受け止めた。

 そこでひねり出したのが、全てが消え去った「爆心地」と、かろうじて残された遺構を結び原爆被害を「面」で考える、というストーリーだった。国もうなずいた。市有識者委員会の下川達弥委員長(活水女子大特別教授、考古学)は「新たな視点を見いだすしかなかった」と言う。

 長崎に、被爆後に残った建物が最初からなかったわけではない。山が海に迫る複雑な地形で平地が少なく、復興の過程で多くが除去されたのだ。その象徴が、爆風で破壊され、1958年に完全に取り壊された旧浦上天主堂。信者が集う祈りの場を求めるカトリック教会は撤去を主張。保存に前向きとされた当時の田川務市長(故人)も「取り壊されてもやむを得ない」と転じた。

 市が遺構の保存に本腰を入れるようになったのは92年。爆心地の近くで旧長崎刑務所浦上刑務支所の外壁が見つかったことが発端だ。スパイ容疑で収容中の中国人らが犠牲になったことで知られる。被爆者の高齢化で継承の難しさが指摘され始めた時期とも重なる。

 一方の広島では昨年来、市内最大級の被爆建物の存廃を巡り揺れている。「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(広島市南区)は、赤れんがの建物4棟合計の延べ床面積が約2万1700平方メートル。「軍都」広島の歴史が刻まれた建築遺産でもある。

 「軍服を縫うミシンのごう音の中、本当にたくさんの人が働いていたのよ」。近くで生まれ育った切明千枝子さん(90)=安佐南区=の母が勤めていた。爆心地から約2・7キロ。被爆直後から負傷者が運び込まれた。数日後、その光景を見た。「悲鳴やうめき声がやまず、広場には遺体が山積みでした」

 広島県が3棟、国が1棟を所有している。95年以降は活用されず、老朽化が進む。県は昨年12月、3棟について「2棟解体、1棟の外観保存」の原案を打ち出すと、市民は「全棟保存」を求める署名を県に提出。国会議員の現地視察も相次ぐなど関心が高まった。

 何よりのネックは最大で「1棟33億円」という耐震化費用。市は「3棟とも保存」を求めるが具体策はない。国は、県の検討を見て4号棟について決めるとする。

 「旧被服支廠の保全を願う懇談会」の代表で、学徒動員先の被服支廠で被爆した中西巌さん(90)=呉市=は「ここで起きた惨状を語り継ぐ人は、もうわずか。壊してから後悔しても遅い」と訴える。県は2月、方針決定の1年程度先送りを決め、保存や利活用の方策を検討する専任部署を設けた。

民間所有 徐々に消滅

 市内に残る被爆建物が年月とともに減っていく現状は、被爆地共通の課題だ。

 長崎市は1996年、被爆の痕跡が認められる建物や橋などの構造物や樹木137件をリストアップし、98年に保存の補助対象(75%、年間上限3千万円)の45件を選定。だがこの22年間に保存費用を賄えないなどの事情で、老朽化した民間の建物を中心に22件が消えた。

 調査に関わった元市職員で被爆者の城田征義さん(75)は「遺構は『あの日』を経験し、今もここにある。それを伝えないといけない」と残念がる。長崎総合科学大の李桓准教授(地域計画)は「市全体で、『次世代への証人』となり得る被爆遺構の在り方をもっと議論すべきだ」と指摘する。

 広島市は「被爆樹木」約160本と「被爆橋梁(きょうりょう)」計6橋を別個にリストにしており、被爆建物については爆心地から5キロ圏内が対象の登録制度を93年に開始した。2015年の「本川公衆便所」、昨年の「真宗学寮」など新規登録もあるが、最多だった1996年度は98件で、現在は平和記念公園の「レストハウス」など86件となった。

 そのうち民間所有が64件。「取り壊さないよう強制はできないが―」。市平和推進課は民間の建物の補修などに、非木造建築は8千万円、木造建築は3千万円を上限に補助する制度を設けている。

 巨大な被服支廠はどう残せるか。中西巌さんは「官民で議論し、知恵を出し合わなければならない。本来、戦争を遂行した国こそ関与する責任がある」と力を込める。議論を重ねた末に保存された「前例」はある。原爆ドーム(中区)はかつて「惨状を思い出すので見たくない」などの声があったが、小中高生の保存運動を機に募金運動へと発展。永久保存が決まったのは被爆から21年後だった。

(2020年4月20日朝刊掲載)

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