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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆76年] 「労働力」 生徒を積極提供

市女動員記録

県・軍の指示エスカレート

 太平洋戦争が厳しさを増していった1943年以降、広島では旧制中学や高等女学校3、4年生の多くが軍需工場などに、1、2年生は空襲に備えて家屋を撤去し空き地を造る「建物疎開」に駆り出された。建物疎開で犠牲になった少年少女は約6300人といわれ、中でも最大の被害を出した学校が、広島市立第一高等女学校(市女)だった。どのような経緯で大量動員が強化されたのか。同校を引き継ぐ舟入高(中区)に残る公文書や学徒勤労日誌から探る。(桑島美帆)

 舟入高の校長室に、茶色く変色した書類を詰めた二つの段ボール箱が保管されている。中には、1943年12月から終戦直後までの公文書つづりやファイルが約30点。軍関係者や広島県知事、広島市長が出した通達など約400点を一冊にとじた「公文往復綴(つづり)」、市女が行政や軍に提出した報告書などからなる。

 「これだけの生々しい資料が残っていたことに驚きました。戦前のわが校を伝える歴史資料であるだけでなく、広島全体の学徒動員の記録だと言えるのではないでしょうか」

 柳智子校長は驚きを隠さない。英語教諭として勤務したこともあるが、教頭として赴任した2年前まで資料の存在を知らなかった。

 ちょうど100年前の1921(大正10)年、市女は国泰寺町(現中区)に開校した。その5年後、現在地に移転。早くから西洋音楽に力を入れるなど、華やかな校風で知られた。爆心地から2・2キロ地点で校舎は一部倒壊したが、全焼を免れたため、これらの書類が残ったとみられる。なぜその後も廃棄や散逸を免れたかははっきりしない。

 1冊ずつ読み込むと、県や軍から学校への指示がエスカレートしていく様子や、それに応える学校側が女学生たちを「銃後の守り」から「労働力」として積極的に提供していった実態が浮かび上がる。陸軍施設や軍需工場が集積していた「軍都広島」の事情も垣間見える。

 44年3月の閣議決定により、それまで時期を限っていた学徒動員が通年で行われることになった。これを受けた横山助成知事(1884~1963年)の名による翌月の通達は、「勤労動員ハ生産ト教育トヲ一体化」すると明言。各学校に動員拡大を求めた。市女は、専攻科生を5月に呉海軍工廠(こうしょう)に、翌月から4年生以上を市内の軍需工場に配置した。

 8月になると校舎も文字通り「生産と教育とを一体化」した学校工場になった。ミシンを各家庭から供出させ、3年生が校内で軍服作りなどに従事した。7月30日付で宮川造六校長(75年に74歳で死去)が広島陸軍被服支廠に宛てて「工場化セラル事 異存無」と回答した承諾書もある。生徒たちに「女性の勤労如何が戦争の勝敗を決する」とハッパを掛けたとの記録も残る。

 軍関係者による教員向けの講習が頻繁に行われ、学校は提供できる人員を随時、県の学徒勤労動員本部などへ報告した。

 学校に向けた通達の多くは、県の内政部長の名前だが、軍や市のものもある。44年9月29日付の粟屋仙吉市長名の通達は、軍馬の飼料不足に対応するため「輸送力増強ニ寄与セントス」として「茶殻回収」を各学校に指示していた。

 今回、一連の資料で確認できた戦前最後の通達は、45年8月1日付の広島連隊区司令官による「学徒隊ノ戦闘隊ニ転移ノ際ニ於ケル隊組織並ニ編成ニ関スル件」だ。「作業隊」「防毒隊」などの編成を具体的に指示している。原爆資料館の落葉裕信主任学芸員(44)は「本土決戦に備えたものだろう。学校の軍隊化をさらに進めようとしていたことが分かる」と説明する。

 とうに戦況が極端に不利な時期になってなお、日本の戦争遂行の方針は変わっていなかったことが読み取れる。わずか5日後、広島に原爆が投下された。県内政部長と県警察部長が連名で、各学校に「動員学徒引揚」の通達を送ったのは終戦翌日の16日だった。

3・4年生の多く工場へ

兵器製造 けが人や死者

 舟入高が保管する資料で特に多いのは、市女の工場動員にまつわる記録だ。引率教員が交代で執筆した「学徒勤労日誌」4冊や、県庁にあった学徒勤労動員本部に提出したとみられる報告書の控えが残る。工場での女学生たちの様子や労働環境などが詳しく記されている。

 「天候晴」「出席数一〇三」「入所式挙行、県知事訓示(代読) 所長訓示、軍監理官祝辞 学校側代表激励ノ辞アリ」。1944年3月に通年動員が決まったのを受け、4年生が船越町(現安芸区)の日本製鋼所へ初めて動員された6月12日の日誌だ。盛大に壮行式が執り行われたのか、筆致に教員の気合がにじむ。

 日本製鋼所西蟹屋工場(現南区)と舟入川口町(現中区)の西部被服工場の日誌もある。市女生たちは原爆が投下される翌年夏まで、過酷な労働を強いられた。特に兵器工場では、慣れない作業でけが人が続出した。

 「学徒動員ニ干(かん)スル綴」には、衛生面や工員の態度の改善を求めて教員が工場幹部と交渉した議事録や、軍隊をモデルにした「学徒隊」の組織図、「報告書綴」には勤労動員中に体調を崩し、死亡した生徒に関する報告書などが束ねられている。

 被爆時に3年生だった稲生小菊さん(91)=中区=は、2年生の6月から日本製鋼所西蟹屋工場で機関銃の弾を製造した。「まだ15歳なのに夜勤もあり、しんどかった。私たちはほとんど勉強できず、本当に不幸な学年。今の子どもたちは幸せです」と力を込める。

1・2年生建物疎開へ

「あの日」 少女541人全滅

 広島市は1944年11月から、空襲に備えた防火帯を造るため6次に分けて建物疎開を計画した。主に市町村や職域で結成する「義勇隊」と、市内の中学校、高等女学校に動員を要請。既に上級生は軍需工場で働いていたため、おのずと1、2年生が「学徒隊」の対象になった。

 県史年表によれば、広島県知事などが義勇隊と1万5千人の学徒隊の出動を決めたのが45年8月3日だった。

 市女の作業日として指定されたのは、8月5日と6日。旧材木町(現中区)や旧木挽町(同)付近の作業を割り当てられた。現在、平和記念公園の南側一帯だ。

 6日午前7時、1、2年生541人と引率教員が集合して朝礼の後、作業を開始。8時に休憩になり、現在の原爆資料館本館の西側付近にあった誓願寺の前で生徒たちが休んでいた時、上空で原爆がさく裂した。爆心地から約500メートルだった。

 県立広島第一中学校(広島一中)や県立広島第二中学校(広島二中)、県立広島第一高等女学校(県女)の1、2年生たちがそれぞれ200~300人規模で爆心地から1キロ圏に動員されており、大半が死亡。市女も全滅した。多くの生徒は遺骨さえ見つかっていない。

体験記補う貴重な一次資料 文書館などで保管 散逸防げ

広島平和研・四條知恵准教授

 学徒動員の実態に詳しい広島市立大広島平和研究所の四條知恵准教授に、資料の価値や保存活用へ向けた課題を聞いた。

 ―残された公文書や動員日誌をどう位置付けますか。
 広島の学徒動員の詳細は建物疎開作業の経緯も含め不明な点が多い。公文つづりや学徒勤労日誌は、第三者が編集したものではなく、体験記を補う貴重な一次資料。学校現場がどのように動いたのかが分かる。

 原爆資料館の学芸員だった2004年に学徒動員の企画展を担当し、市女の資料の一部を展示したが内容を精査する余裕はなかった。誰が指示し、学校はどう協力したのか。市史や県史と照合しながら、丁寧に検証し、同じ過ちを繰り返さない教訓にすべきだ。

 ―広島での戦争体験の継承は、被爆体験に焦点が置かれてきました。
 学徒動員により、子どもたちは教育の権利を侵害されると同時に、兵器や軍事物資を生産する工場で働かされた。広島では動員が拡大された末に、建物疎開に参加した多くの子どもたちが犠牲になった。戦争の被害者であると同時に、戦争に協力する主体でもあった。今では考えられないことが実際に起こったことを資料が伝えている。

 ―文書の劣化もかなり進んでいます。
 戦時中の書類は紙質が悪く、専門的な知識に基づき適切な温度と湿度管理の下での保管が求められる。学校現場にそこまで求めるのは不可能だ。特に、公立高は教員の異動もあり、資料の散逸や廃棄の可能性は常にある。県立文書館や市公文書館など公的機関で保管すべきだろう。学校資料は一点物が多く、失われれば歴史自体が「なかった」ことになる。

 資料は見る人によって新たな発見がある。しかし公開されなければ「無」に等しい。地域の知的資源を、個人情報に配慮しながら活用し、公開していくことが必要だ。

しじょう・ちえ

 2000年早稲田大第一文学部卒。原爆資料館学芸員を経て、13年九州大大学院で博士号取得(比較社会文化)。21年4月から現職。広島市安佐南区出身。

(2021年7月19日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年] 市女の悲劇 招いた軌跡 舟入高 大量の学徒動員記録

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