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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 印鑑・焼け焦げた書類… 「材木町94番地」加藤さん遺品寄贈

爆心直下の営み「後世に」

 現在の平和記念公園(広島市中区)の原爆資料館本館付近にあたる「材木町94番地」に住み、原爆投下で犠牲となった加藤アサさん=当時(66)=の遺品の印鑑や焼け焦げた書類を、遺族が同館に寄贈した。爆心直下で壊滅した街の暮らしを伝える証し。同館は「資料館がある場所にあった営みや被害を知る上で貴重だ」とする。(水川恭輔)

 寄贈されたのは「加藤」の印鑑、焼け焦げた書類や土地の証書、がま口の財布、鍵、硬貨の入った弁当箱など。加藤さん宅の焼け跡で金庫の中に入っていた貴重品類をまとまって取り出したものという。亡き両親から受け継いだ孫の純久さん(78)=中区=が今年4月、「後世に残したい」と同館に託した。

 加藤さんが暮らした94番地は商店や料理店、医院などが軒を連ねた材木町筋の一角。間口が狭く奥行きが長い建物が並んでいた。

 「通りに面した表は青果店に貸し、祖母は奥に1人で住んでいたそうです」と純久さん。アサさんは一時、夫茂一さんと疎開していたが、1945年1月に夫に先立たれたため、住み慣れた材木町に戻っていた。

 「あの日」、材木町や中島本町など現在の平和記念公園一帯にあった中島地区は爆心直下となり、壊滅。純久さんの父広三さんが大竹署の警察官として救援の任務に携わる中、母敏子さんが現在の大竹市から当時2歳だった純久さんたちを連れて材木町の自宅跡に捜しに入った。だが、遺骨も見つからなかった。

 「自宅の跡で見つけた犬の骨に見える骨をおばあちゃんと思って墓に入れた」―。当時幼く、記憶のない純久さんは後に父からそう聞いた。父は生前、金庫の中に残っていた遺品を「大事なものだから」と言って大切に保管していた。

 資料館本館下では2015~17年、市が地中に免震装置を設ける前に発掘調査を実施。加藤さん宅の南隣の材木町95番地で刃物商を営み、被爆死した山縣貞一さん=当時(51)=の自宅跡から黒く炭化した木製しゃもじなどが残る焼けた地表面が出土し、市は一部を切り取って同館で保存している。貞一さんは、現在開催中の東京五輪の陸上代表の山縣亮太選手の曽祖父になる。

 同館の下村真理学芸員は加藤さんや貞一さんの資料について「中島地区に関わる所蔵資料は少なく、貴重だ。一軒一軒の生活の証しが増えることで、当時の状況により近づける」と話す。元市職員で平和記念式典の開催なども担当した純久さんは「平和記念公園にかつて街があったことを伝える何かの役に立てば」と期待する。

(2021年8月4日朝刊掲載)

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