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連載・特集

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <上> 広島戦災児育成所

 広島は1945年8月6日を機に全国最多の孤児をみた。原爆のためである。よりどころを奪われた子どもたちを引き取った「広島戦災児育成所」が53年、広島市に移管されるまでの「要覧」と「児童名簿」が見つかった。語られることさえまれな「原爆孤児」を巡るヒロシマの実態や軌跡を追う。(西本雅実)

母・兄失い4年後入所

 東京都府中市に住む村上信明さん(76)が、一連の記録を保存し、広島市の原爆資料館へ寄せた。貴重な史料は、個人情報を含むため提供そのものが未公表だ。本人とやりとりし、仲間の名前には触れないことを了承して証言にも応じた。

 「生まれたのは広島市三川町(現中区)です」。父傳(でん)太郎さんは43年に病死し、母綾子さんが、近くの小町にあった控訴院(現広島地裁)の売店で働き2児を育てた。

親戚宅を回る

 8月6日は、引っ越し先の吉島羽衣町(現中区羽衣町)で被爆した。41歳だった母は今も遺骨不明に。幼かった記憶に刻まれるのは、竹屋国民学校6年の兄幸(みゆき)さん=当時(12)=と一緒に逃げた地面の熱さ、どこかで重湯をもらったことだという。そして野辺送り。親族と避難した下蒲刈島(現呉市)で兄は8月17日に死去する。

 独りとなり、観音町(現西区)で「庭も広かった」母方の伯母宅に引き取られる。夫妻には子どもがいなかった。しかし、「本当の母だと思っていた」伯母も被爆のため翌年に死去。もう一人の伯母や父方2人の叔父は廃虚に建てたバラック住まい。どの家族の子どもたちも日々の食事や寝床の確保に苦闘していた。

 「親戚宅をぐるぐる回っていたので、いつか、どこかへ行くんだろうなあと思っていた」。小学校へ上がるのを前に、伯母が新聞でその存在を知っていた広島戦災児育成所へ伴った。

 育成所は、僧侶でもあった山下義信氏(1894~1989年)が復員直後、楠瀬常猪知事に直談判して市郊外五日市町(現佐伯区皆賀)の県農事試験場の建物も借り、私財を投じて開いた。「原爆孤児が悲惨な状況にある」のを聞き「放置できないと心に叫ぶものがあった」(自筆の回想記から)。学徒動員された次男を原爆で失っていた。

 45年12月23日、戦時下の学童疎開が終わっても広島県北に残された7人が着き、新年が近づく28日に中島・本川・袋町国民学校などの12人が続く。開所式は46年1月19日である。

 旧厚生省が48年2月にまとめていた「全国孤児一斉調査結果」によると、広島県は5975人に上り、東京大空襲の首都を超えた(「引揚」「一般」「棄迷」を含む)。大半は祖父母兄姉などが「保護」とあるが、456人が「施設に収容」されていた。

12年間過ごす

 そうした広島にあって育成所は、新聞・雑誌やラジオの報道を通じて全国的に注目されるようになる。

 昭和天皇との対面である。47年12月7日に広島市を巡幸し、育成所近くで車から降りる。山下氏の勧めから得度した5人の少年僧や、原爆で左目を失っていた男児ら総勢84人が、陛下の肉声にも接した。中国新聞は「再起誓う“原爆の子”」の見出しで報じた。

 育成所の子どもたちは、原爆の悲惨さを体現し、平和を願うヒロシマの象徴的な存在とみなされる。村上少年は49年4月8日に入所した。小学校入学から高校卒業まで「多分最長でしょう」と顧みる12年間を、育成所と後に改称の「広島市童心園」で過ごす。

(2018年8月2日朝刊掲載)

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <中> 民間・広島市営

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <下> 古里への史料提供

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