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連載・特集

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <中> 民間・広島市営

押し付けもあった務め

 「広島戦災児育成所」へ村上信明さん(76)=東京都府中市=が入った翌月の1949年5月に、国の特別立法である「広島平和記念都市建設法」が衆参両院を通過する。復興への足取りは次第に高まっていく。

 市郊外の五日市町(現佐伯区皆賀)にあった育成所は、46年1月の開所時は18畳の「第一児童室」のみだったが各寮に続いて、病室が49年5月に設けられた。

 村上さんが保存していた入所年時の「要覧」をみると、少年少女85人がいた。理由は「原爆孤児」が67人と最多で、うち53人が「罹災(りさい)児」。肉親を奪った原爆に自身も遭っていたわけだ。

 「私で言えば、集団生活は嫌いではなかった。でも気管支炎や肺炎と絶えず病気にかかり、小学5年の頃までは年に約2カ月は伏せっていた」。爆心地から約1・5キロで被爆した影響なのか、皮膚のかぶれも腫れる。付いたニックネームは「赤ちゃん」だった。

綱渡りの運営

 育成所は、48年の児童福祉法で養護施設と位置付けられ、わずかな公費補助と前年に始まった「赤い羽」共同募金の配分を受ける。

しかし、綱渡りが続いた。 ひとえに運営は、理事長の山下義信氏(89年に95歳で死去)と所長で妻の禎子氏(62年に60歳で死去)の「理想と熱情」や、それに「感激」した若い職員らによる―と「要覧」は記す。「父となれ、母となれ」が合言葉であった。

 地元の五日市小・中や、市内の学校にも通う子どもたちは、6~10人ずつに「家庭」を編成し、それぞれ「担任母」の女性職員が各寮で起居を共にした。

 起床は午前6時半。みなが掃除をして朝食前には、所内の「童心寺」へ仏参した。日曜日は農園を耕し、養鶏をした。ビワや柿、栗の木などもあった。

 「腹いっぱいの記憶はないなあ」。村上さんは近くの八幡川でアユを捕り、トノサマガエルも焼いた。「捕ったもの勝ち」のこつは教えられた。「実のきょうだい以上」との思い出や、「甘え諭された」担任母らの横顔を懐かしんだ。

 同時に運営の一面をこう振り返った。「あそこまで『哀れ』『同情』を強調する必要があったのか、振る舞いへの締め付けには強いものがありましたね」

 所歌は「〽さだめ同じき はらからと(略)み親とたのむ 慈悲の家 ここ 戦災時育成所」と唱和した。夏休みも八幡川で泳ぐことは、8月6日を過ぎるまでは許されなかった。

 「私らが真っ黒に日焼けしていては…」。取材ばかりか著名人の来訪も珍しくなかった。大人の押し付けや思惑を覚えるようになる。山下氏は47年に参議院議員(広島地方区)となり、57年の原爆医療法制定にも努めるが、自身や支援する地方議員らの選挙応援に出される子もいた。

 育成所は53年1月1日、「広島市戦災児育成所」となった。個人の奮闘や善意ではなく復興が進むなか、ようやく「公」が、原爆被害に幼い頃から直面する少年少女の育成を担う。

「見せ物」拒否

 「市営で精神的な負担感は楽になった」とはいえ、ヒロシマの体現者とみなされることは変わらなかった。民間を含む5施設の「原爆孤児」は、54年の平和記念式典から60年まで遺族代表として献花する。

 村上さんは中学3年の時に求められた。「見せ物にはなりたくない」。代わってくれたのは、両親だと後に名乗り出た夫妻といったんは同居した、亡き同級生だった。(西本雅実)

(2018年8月3日朝刊掲載)

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <上> 広島戦災児育成所

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <下> 古里への史料提供

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