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連載・特集

平和を奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <4> 修復

「古き良き時代」の響き

 広島の原爆で亡くなった河本明子さんと愛用のピアノは、ともに1926年に米国で生まれた。一見、ありふれた家庭用のアップライト(縦型)ピアノ。困難な修復を経てよみがえった音色は、ありふれた幸せを絶たれた少女の「面影」を私たちに伝えてくれる。

練習は6歳から

 「ELLINGTON CINCINNATI USA」と内部に刻印された明子さんのピアノは、製造番号から26年に作られたことが分かっている。米オハイオ州シンシナティ市に本社があった、米国を代表するピアノメーカー、ボールドウィン社の「エリントン」という製品。シンプルな外見から家庭用に販売されていたと思われる。

 同じ26年、明子さんは西海岸のロサンゼルスで産声を上げた。結婚4年後の両親にとって待望の長子。父の源吉さんの日記には「聡明ナル様祈ル。由テ名ヲ明子ト命名ス」と記されている。当時、源吉さんは日系人を顧客に保険業に従事していた。生後7カ月の古い写真。愛らしい表情の明子さんを大きなピアノとクリスマスツリーが囲む。

 源吉さんの日記によると、明子さんは6歳の時、ロシア人のピアノ教師について練習を始めた。間もなく両親の郷里である広島に帰国。10歳ごろの明子さんの日記には、三滝町(現広島市西区)の自宅でピアノの個人レッスンを受けた日々がつづられている。

 「内部のハンマーには弦をたたいた跡がびっしり。よく使う鍵盤の中央部分はグラグラしていた。熱心に練習していたのでは」。ピアノを修復した調律師の坂井原浩さん(56)=安佐北区=は、在りし日の姿を思い描く。

 2002年、長年空き家だった河本家から引き取ったピアノは経年劣化が激しく、そのままでは演奏できない状態だった。鍵盤から弦にかけてのパーツを分解。交換が必要な部分はサイズの合う米国製を探した。さび付いた小さな部品は一個ずつ手作業できれいに。元の音色が損なわれないよう、弦の交換はあえて最小限にとどめた。仕事の合間に取り組んだ修復作業は半年に及んだ。

ビューティフル

 坂井原さんの情熱を支えたのは、学徒動員中に被爆し、翌日に自宅で亡くなった伯父と重なる明子さんへの思いだった。8月6日、勤労奉仕中に被爆した明子さんは約4キロの道のりを歩き、川を泳いで、自宅近くまで戻ったと推測される。近所の人の連絡で駆け付けた源吉さんが背負って連れ帰ったが、翌日、「トマトが食べたい」と言って息を引き取った。

 17年8月。米国出身の名ピアニスト、ピーター・ゼルキンさん(今年2月に72歳で死去)が演奏会のために広島市を訪れた。リハーサルの合間、「明子さんのピアノ」に触れ、「ビューティフル、ビューティフル」と繰り返した。「古き良き時代のピアノの音色だ」

 翌日、再びピアノに向き合い、バッハ、モーツァルト、ショパンの計11曲を演奏。その時の録音は翌年に「Music for Peace」のタイトルでCD化され、印税はピアノの保全費用に寄付された。ゼルキンさんは生前、メッセージを残している。「このピアノの歌心に富んだ、ぬくもりのある人間的な声は私たちを癒やし、生きていることへの感謝の念を表現してくれる」(西村文)

(2020年4月24日朝刊掲載)

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平和で奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <1> 発見

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平和を奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <3> 広がる共鳴

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