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連載・特集

平和を奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <2> 残された日記

全21冊 等身大の胸の内

 19歳の明子さんを原爆で失った河本源吉さん、シヅ子さん夫妻は戦後半世紀以上にわたって、まな娘が愛用したピアノとともに、日記帳など身の回りの品々も大切に保管し続けた。それらの一部は貴重な資料として原爆資料館(広島市中区)に収蔵されている。

学徒展きっかけ

 長年、空き家となっていた河本家(西区三滝本町)に残されていた遺品の存在が分かったのは、同館で2004年7~12月に開催された「動員学徒―失われた子どもたちの明日」展がきっかけだった。

 軍需工場や建物疎開作業へと動員され、原爆で亡くなった学徒の遺品など計189点を並べた企画展で、当時大きな反響を呼んだ。その中に明子さんのピアノがあった。側面に原爆の爆風による傷痕があることから「ガラスの刺さったピアノ」というタイトルで紹介された。

 広島女学院専門学校3年だった明子さんは8月6日、現在の中区八丁堀周辺で勤労奉仕中に被爆。翌日、自宅で両親にみとられて息を引き取った。6日の早朝、体調が悪いと訴える明子さんを「リーダー役に選ばれたのだから、頑張って行きなさい」と弁当を持たせて送り出したことを、母のシヅ子さんは晩年まで悔いていたという。

 同館は企画展の準備のために03年末から、各校の同窓会などを通じて遺族に遺品の提供を呼び掛けた。明子さんの弟で横浜市に住んでいた山本正隆さん(故人)が承諾し、調律師の坂井原浩さん(56)=安佐北区=が所有していたピアノを展示に提供した。三滝本町の河本家に残されていた遺品のうち、約140点を寄贈した。

6歳からつづる

 英語や国語の教科書、ノートなど大量の遺品があった。佐藤規代美学芸員が注目したのは、明子さんが6歳から亡くなる前年まで書き続けた、21冊に上る日記帳だった。「被爆死した生徒がこれほど長期にわたって書いた日記は見たことがなかった」。佐藤学芸員は「発見」時の驚きを振り返る。

 「ケフモ ピヤノヲナラヒマシタ」。たどたどしい文字で始まった日記は、冊数を重ねるごとに達筆に。学習帳から華やかな表紙の「女学生日記」に変わるころには、親への反発や女性としてのままならない思いもつづられている。「父は勉強せよと言って下さるが、どうも母が反対なので困る。こんなに食べ事に朝から晩まで時間を費やすのが女の仕事かと思へば、何をしに生まれて来たのか判らない」(1944年4月9日)

 「原爆で亡くなった一人の少女が、私たちと同じ『普通の子』だったんだな、と。長い日記を読み進めると実感できる」と佐藤学芸員。複数の職員で手分けして、全21冊を解読した上、パソコンに入力して文字データ化した。「75年がたち、原爆で亡くなった人を想像することは難しくなっている。明子さんのピアノや日記は時を超えて、その人のぬくもりを伝えてくれる」と確信する。(西村文)

(2020年4月22日朝刊掲載)

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平和で奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <1> 発見

平和を奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <3> 広がる共鳴

平和を奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <4> 修復

平和を奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <5> 継承

パルチコフ一家 被爆前の日常 白系ロシア人、1922~45年に広島で撮影 米在住の遺族、300枚所蔵

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