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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <2> 移民

戦時の縮図刻む家族史

  ≪旧姓は中村。現在の東荒神町(広島市南区)で1932年、兄3人、姉3人の7人きょうだいの末っ子として生まれた≫

 中村家はかつて広島藩士で、時が明治に移ると、生活が楽ではなくなったようです。それでも祖父弥太郎は県令(知事)千田貞暁に賛同し、難事業だった宇品築港計画に奔走したといいます。家計を支えようと、父弁吉が10代の若さで米国カリフォルニア州に移民したのでした。

 本当に一生懸命働いて英語も勉強し、サクラメント郊外に大きな果樹園を経営するまでに。排日的な法律で土地所有が許されず、ドイツ人との共同経営でした。ですから、きょうだい5人は米国生まれ。一定の財をなして一家は広島へ戻り、その後に私が生まれました。母シゲノは、米国の暮らしが好きだったみたい。向こうで習ったオルガンを懐かしそうに弾き、一緒に歌ったものです。

 ≪きょうだいの歩みは、第2次世界大戦中の日本の縮図のようだ≫

 私は母が45歳の時に生まれた子で、長兄の勇とは20歳以上離れていました。日本が植民地支配した朝鮮半島の学校に教師として赴任中の41年、病死しました。駆け付けた両親を前に、「学校葬」として手厚く弔ってくれたそうです。悲嘆に暮れながら広島に戻った母が「朝鮮の人は素晴らしい文化を持っている。差別はいけない」と語ったのを覚えています。「節子ちゃん! 宇品へ泳ぎに行こう」と語る兄の声は、幼い記憶の宝物。大好きでした。

 次兄の進は日本陸軍の将校になり、台湾や朝鮮半島に赴きました。英語力を買われたようで、フィリピンでの「バターン死の行進」に関わった本間雅晴中将と米軍司令官との会談では通訳を務めました。その時の歴史的な写真にも納まっています。生まれた国との戦争の末、戦犯訴追の危機にも直面しました。

 嫁ぐため再び米国に渡ったのが、長姉の文子。「隔離収容所」とされたツールレイクの日系人収容所で終戦を迎えました。長男ジョージ・タケイは後にドラマ「スタートレック」の人気俳優になります。

 太平洋を挟んで戦争を生きた兄と姉。わが子の身を案じた両親の胸の内は、計り知れません。

(2018年8月4日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <3> 幼少期

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