『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <17> ICAN
18年8月28日
「非人道性」掲げ急拡大
≪10年ほど前、現在に直接つながる巡り合いがあった≫
反核医師たちを中心にオーストラリアで設立された「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))が、2007年5月にはカナダでも立ち上がりました。国会議事堂で設立総会があり、講演者として招かれたのです。実は「反核集会の一つかな」というぐらいの印象。その後の展開は想像もしていませんでした。
その翌年には、日本から離れて暮らす被爆者として、とても新鮮な体験もありました。東京の団体「ピースボート」が被爆者を招待した世界一周の航海で、102人もの被爆者と過ごしたのです。被爆時はまだ幼くて記憶がなく、「私に体験を語る資格はない」と気後れしている人も多くいました。でも、4カ月の船旅を終える頃には表情は明るく、被爆者としての責任感がにじんでいました。うれしかった。
地域社会や家庭を破壊し、記憶のない人や家族にも影響を与えるなど、あらゆる人間の営みに及ぶのが原爆被害。むしろ、「あの日」の悲惨さだけを語るだけなら不十分です。記憶がなくても世界に伝えるべき体験と思想は、あるはずです。
当時からピースボートの共同代表だったのが川崎哲(あきら)さん。後にICANにも加わり、素晴らしいリーダーシップを発揮してくれます。
≪10年に国連であった核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が、新たな潮流となる≫
核保有国は条約に書かれた核軍縮義務をちっとも果たそうとせず、市民社会も非保有国も、とうに怒りを通り越していた。そんな時、会議で「核兵器の非人道性」を強調した文書が採択されたのです。
ならば、新たな条約で非人道兵器の禁止を―。ICANが急拡大を始めます。若者が各国の外交官と堂々と渡り合い、ロビー活動。会員制交流サイト(SNS)を通して、世界中で情報や戦略を瞬時に共有します。軍縮運動に人生を懸けてきたベテランも、豊富な経験を生かし、大いに貢献していました。私は、核兵器に頼る愚かさを懸命に訴えました。非人道性というアプローチと、被爆者たちの実体験。両輪が力強く回っていきました。
(2018年8月28日朝刊掲載)
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <1> 新たな決意
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <2> 移民
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <3> 幼少期
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <4> あの日
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <5> 地獄絵図
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <6> 喪失
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <7> 号泣
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <8> 高校
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <9> 16歳で洗礼
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <10> 女学院大時代
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <11> 奉仕活動
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <12> 留学と結婚
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <13> ソーシャルワーカー
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <14> 市教委勤務
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <15> 裁判支援
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <16> 軍縮・平和教育
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <18> 反核の同志
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <19> 条約交渉会議
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <20> ノーベル平和賞