『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <3> 幼少期
18年8月7日
本と新聞好きの末っ子
末っ子だからと甘やかされた記憶はないけれど、かわいがられました。すぐ上の姉幸子と6歳離れていて、年上に囲まれていましたから。
≪本と新聞が好きだった。荒神町国民学校では、6年生まで毎年、男女1人ずつ選ばれる「優等生」≫
人形遊びとかに興じた記憶はあまりないんです。長兄の勇が買ってくれたイソップ童話などの絵本を喜んで読みました。父はいつも中国新聞の記事を読み聞かせてくれました。
中村家はいわゆる本家で、母の世話好きな人柄も相まって、常に親戚や知人が出入りしていましたね。叔父の尋(ひろし)は、金座街(現広島市中区)にあったレストラン名井屋でコーヒーを片手に新聞を読むのが日課。記事の内容を聞きながら、当時では珍しく冬もメニューにあったアイスクリームを食べさせてもらいました。私の父である兄を頼って夫婦で米国に渡り、スキーやゴルフも満喫した、楽しい人でした。
尋の妻貞代は「日本にも洋装の時代が来る」と米国で裁縫を習い、帰国後に洋裁学校を経営しました。父が資金を出したそうです。生徒さんたちは、私の体の寸法を測って子ども服を作りました。「かわいいね」と言われながら、いろんなワンピースを着せられましたよ。ファッションモデルの気分でした。
≪被爆前の街で健やかに育ちながら、戦争の影も感じ取っていた≫
日中戦争、太平洋戦争、と突入していく中で、市民生活は急速に変わっていきました。そんな時、自宅の一部が道路拡幅工事によって壊され、家屋が半分にされてしまいました。「戦地に物資を運ぶため」と聞かされましたが、生まれ育った家でしたから、子ども心に衝撃でした。
両親と私は隣に持っていたもう一軒の家に移り、狭くなった自宅は貸し出されて軍人さんの旅館になりました。各地から広島に集められ、宇品から船で戦地へ赴く前に、日本で最後の夜を過ごすのです。
手拍子に合わせて歌う声が毎晩聞こえてきます。ある日、座敷に上げてもらい「元気で帰ってきてね」と言うと、皆が目を細めて喜んでくれました。一見和やかな酒席に何ともいえない悲哀を感じ、「これが戦争なんだ」と胸を締め付けられました。
(2018年8月7日朝刊掲載)
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <1> 新たな決意
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <2> 移民
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <4> あの日
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <4> あの日
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <5> 地獄絵図
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <6> 喪失
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <7> 号泣
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <8> 高校
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <9> 16歳で洗礼
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <10> 女学院大時代
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <11> 奉仕活動
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <12> 留学と結婚
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <13> ソーシャルワーカー
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <14> 市教委勤務
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <15> 裁判支援
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <16> 軍縮・平和教育
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <17> ICAN
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <18> 反核の同志
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <19> 条約交渉会議
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <20> ノーベル平和賞