『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <20> ノーベル平和賞
18年9月3日
核兵器 終わりの始まり
昨年12月10日、ノルウェー・オスロ。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞授賞式に、母の形見の着物を仕立てたドレスで臨みました。夫ジムにも生きて見守ってほしかった。
≪4歳だったおいの悲惨な被爆死を語り、米国の原爆使用を戦争犯罪として言及。核保有国だけでなく、「核の傘」の下にいる国も「共犯者」と指弾した。ベアトリス・フィン事務局長に次いで発信した渾身(こんしん)の受賞演説は、世界で反響を呼んだ≫
母校、旧友や親類からの温かい言葉に感激するばかり。古里広島と新たなつながりを得た思いです。軍縮・平和教育に長年取り組んだ一人として、特別な「出会い」もありました。三次高から後日、100人もの生徒が日本語と英語の両方で書いた感想文が届いたのです。「次世代に届いている」と勇気を得ました。
一方で、私には不完全燃焼でもあったんです。「米国の核」を求める被爆国日本。核同盟である北大西洋条約機構(NATO)の一員、カナダ。条約の交渉会議に「共犯者」の姿はなかった。二つの母国を名指しし、条約参加を迫りたかった。とはいえ、世界中の国々に働き掛ける受賞演説でもあります。与えられた場と時間で、私なりに精いっぱい伝えたつもりです。
≪早くも前を向いて歩いている≫
講演原稿をしたためるたび、原爆犠牲者を思い、涙が止まらなくなる。73年前の体験を思い出すのはつらい。でも「私がやらなければ誰がやる」と自らを奮い立たせてきました。
受賞の栄誉は、それ自体が目的でも、人生の記念品でもない。10年前にカナダ政府から勲章を頂いた時もそうでしたが、目標達成のため最大限に生かすべきもの。核兵器廃絶運動は、市民が自国の政策転換を迫る政治的な運動です。私と仲間は、あらゆる手でトルドー首相への強力なアプローチを試みています。
まだ「核兵器の終わりの始まり」。仕事は山のようにある。感慨にふけってなどいられません。=おわり(この連載はヒロシマ平和メディアセンター長・金崎由美が担当しました)
(2018年9月1日朝刊掲載)
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <1> 新たな決意
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <2> 移民
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <3> 幼少期
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <4> あの日
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <5> 地獄絵図
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <6> 喪失
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <7> 号泣
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <8> 高校
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <9> 16歳で洗礼
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <10> 女学院大時代
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <11> 奉仕活動
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <12> 留学と結婚
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <13> ソーシャルワーカー
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <14> 市教委勤務
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <15> 裁判支援
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <16> 軍縮・平和教育
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <17> ICAN
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <18> 反核の同志
『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <19> 条約交渉会議