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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <4> あの日

動員作業前 突然の閃光

  ≪広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)に1944年春に入学。だが、太平洋戦争を巡る状況はさらに厳しくなっていく≫

 英語が勉強できるし、成績が良ければ2年でピアノの授業も受けられる、というのに引かれました。特に母は、移民経験がありオルガンも好きでしたから賛成でした。

 1年生の時はかろうじて授業があり、英語で「ディス、イズ、ア、ペン!」と先生の言葉に従って発音したりしましたが、2年生になると学徒動員作業の毎日です。

 特に現状に疑問を持つことはなかったですね。しかし、両親は違っていたと思います。子どもたちに日本の教育を受けさせようと帰国するまで、1900年代初めの過酷な日系人差別に耐え、米国で働き続けたのですから。国力の差を認識していたはずです。あるとき、父が英文法の本を読んでいるのが目に留まりました。米国に打ち勝つと信じて疑わない世間を冷静に見ながら、次なる事態を洞察していたのでしょう。

 農作業もしましたし、陸軍被服支廠(ししょう)や広島地方専売局にも行きました。45年7月には、前線から届く暗号メッセージの解読作業に動員されました。暗号表に照らして足し算や引き算をして、素早く言葉に置き換えるのです。こんな任務を女学生に任せるしかなかったとは、いかに無謀な戦争だったのでしょうか。しかも、日本軍の暗号は米軍に傍受・解読されていたといいます。そんなことは知る由もなく、やり方を身に付けることに懸命でした。

 ≪訓練期間を終え、解読助手としての作業初日が45年8月6日だった≫

 あの日の朝、暗号班の生徒は広島駅に集合して隊列を組み、動員先に向かいました。現在の東区二葉の里にあった第二総軍司令部です。私が先頭に立ち、「かしら、右!」「歩調、取れ!」と号令を掛けました。

 同級生約30人と一緒に木造の建物の2階に上がり、柳内賢治少佐の訓示を聞きました。「天皇陛下のために最善を尽くして、与えられた任務を全うせよ」という内容でした。さあ作業、という時でした。すさまじい閃光(せんこう)に包まれ、体ごと吹き飛ばされました。13歳と7カ月でした。

(2018年8月8日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <5> 地獄絵図

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