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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <6> 喪失

姉とおいの死 心の傷に

 二葉山で夜を明かした翌日、軍人さんから「中村節子!」とメガホンで呼ばれました。父が私を捜し回っていたのでした。宮島(現廿日市市)で釣りをしていて無事だったのです。母は倒壊した自宅から命からがら逃げ出していました。

  ≪両親との再会もつかの間、姉やおいたちの死に直面する≫

 近くに親族の別荘があり、そこに次姉の綾子と4歳の長男英治がたどり着いていました。京橋川に架かる柳橋のたもとで被爆したようです。

 皮膚はずるむけ、顔は膨れ上がり、無残な姿でした。水を求める英治の小さな口を押し開き、陸軍第五師団の軍人さんが内緒でくれた冷凍ミカンを搾って流し入れるのが精いっぱい。なすすべなく、相次ぎ息絶えました。綾子は昔の女性には珍しく、自分で決断する性格。尊敬していました。おいはかわいい盛りでした。

 ≪過酷な体験は、今でいうトラウマ(心的外傷)となった≫

 二葉山で荼毘(だび)に付しました。「腹はまだ焼けてないぞー」「脳みそは生焼けだぞー」。兵隊さんたちが遺体に石油をまいて竹ざおで転がすのを、異臭に包まれながら、無言で見つめるだけでした。涙も出ませんでした。「あの時悲しまなかった私」を責め続けた末、心理学的にも理由があると知ったのは後になってのこと。究極的な状況に置かれると、人間は感情をまひさせて自らの心を守るのです。

 冬もアイスクリームを食べさせてくれた叔父と手作りワンピースを着せてくれた叔母は、その日は牛田(現広島市東区)にいて無傷だったのに、間もなく体中に紫斑ができ、苦しみながら亡くなりました。

 長兄勇の妻道枝は、千田町(現中区)にあった山中高女(広島大付属福山中高の前身)の教師として、建物疎開作業を引率していました。市役所近くの雑魚場町(現中区)で1、2年生300人以上とともに全滅し、行方不明のまま。兄は4年前に朝鮮半島で亡くなっていましたから、長男の正孝は7歳で両親を失った。「帰ってくるかも」と母を求め、駅に通い続けたそうです。

 一発の原爆が、人間の尊厳も、にぎやかな家族の営みも、一瞬でずたずたにしたのです。

(2018年8月10日朝刊掲載)

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