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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <7> 号泣

失意超え「生きていく」

 3番目の兄正美は早くに病死していましたから、長兄に続いて原爆で次姉も失ったことで、7人きょうだいは4人になってしまいました。

 被爆を免れた姉幸子と両親とで自宅に戻ったのは、8月8日ごろ。完全に焼け落ちていました。重ねた茶わんはひしゃげて固着し、母が「(広島藩主の)浅野家からいただいたのよ」と蔵で大切にしまっていた漆器は、跡形もありません。熱が残る土に爪を立て、自分で掘り出したのは金属製の置き時計だけ。後世に残そうと、後にカナダの首都オタワの戦争博物館に寄贈しました。

 全てを失った私と両親は、母方の伯父、難波修一の家に身を寄せました。伯父も妻と子ども2人を失っていました。誰もが大変な時期だったのに、難波家の人たちには物心両面で支えてもらい、ありがたかった。

  ≪一度だけ、心が折れた≫

 被爆時は涙も流さなかった私ですが、原爆が落とされた翌9月に広島を直撃した枕崎台風には、心が乱されました。帰宅途中に暴風雨に打たれ、膝まで水に漬かって流されそうになりながら、「原爆、台風…。なぜこんな目に遭うの」と感情が爆発したのです。

 家に着くなり号泣しました。その時の父の反応が忘れられません。「命あってひとつ屋根の下で暮らしているではないか」と、烈火のごとく怒りだしたのです。頭を殴られたような衝撃とともに、目が覚めました。「私は生きている。生きていくしかないのだ」と。

 ≪授業は10月、牛田国民学校の教室を借りて再開した≫

 学びやの復活は、新たな光でした。級友と再会を喜び合ったものです。厳しい現実もありました。私も脱毛や歯肉の出血といった放射線障害の急性症状に苦しみましたが、まだ軽い方だったと思います。もう空襲はないのに、防空ずきんをかぶった生徒がいました。髪のない頭を隠すためです。毎朝の点呼の時、名前を呼ばれなくなる人がいました。恐怖心から、体に紫斑が出ていないか毎朝確認するようになりました。

 広島女学院では351人の命が奪われ、その後も生徒は病や死の不安と隣り合わせで生きたのです。私にとって、怒りと行動の原点です。

(2018年8月11日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <8> 高校

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