×

連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <8> 高校

新聞作り 民主主義実感

  ≪敗戦と枕崎台風、食糧難…苦しい時期を切り抜けた≫

 被爆から9日後の「玉音放送」は、親戚の別荘がある二葉山の茂みで聞きました。雑音ばかりでしたが、兵隊さんたちが身を投げ出すように泣き崩れるのを見て意味が分かりました。ほっとしたというか、どこか解放感を覚えましたね。

 1946年に入ると、間借り授業をしていた牛田国民学校から、牛田山の仮校舎に移りました。建物は、まさに急ごしらえ。トタン屋根は、雨のたびに先生の声をかき消す大音響。隙間風もひどく、「吹き上げ御殿」と呼んだものです。どこも物不足でした。

 生活は、皮肉にも原爆を落とした米国に救われたようなものでもありました。在米の長姉文子が46年、カリフォルニア州ツールレイクの日系人強制収容所から解放され、大きな小包を届けてくれるようになりました。父の好物の厚切りベーコンなど、栄養豊かな食材がぎっしり。姉一家も全てを失ったはずなのに、助けてくれました。

 ≪米占領期の民主化政策を体現するような毎日を送った≫

 戦後の新しい空気を深呼吸するようでした。新制高校の2年生となった48年11月、私の発案で「広島女学院高校新聞」を創刊したんです。新憲法の「言論の自由」の実践です。心から熱中しました。

 今の三越広島店(広島市中区)の場所にあった中国新聞社に通いながら、整理記者から紙面制作を一から教わりました。階段を駆け上がると、ぷーん、とインキのにおいがしてね。わくわくしたものです。

 仲間には、後にオーストラリアに住んだ絵本作家の故森本順子さんもいました。社説や論説を書いたし、米国人の先生の自転車を借りて、広告営業もやりました。映画館を回ると新作を無料で見せてくれるんです。その分、映画評も執筆しましたよ。後に進学した広島女学院大でも、やはり中国新聞の協力を得ながら大学新聞の創刊に関わりました。

 いつも「中国新聞に育ててもらった」と言うのですが、本当なんです。今は、朝起きるとまずウェブサイトで原爆平和記事を読み、古里とのつながりを確かめています。

(2018年8月14日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <9> 16歳で洗礼

年別アーカイブ