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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <9> 16歳で洗礼

「愛と行動」の信仰決意

  ≪広島女学院のキリスト教教育が人生の道しるべとなった≫

 高校、大学とキリスト教女子青年会(YWCA)活動にも熱心に取り組みました。高校では会長を務めたほどです。

 その中で、1947年の第1回参院議員選挙にも関わったんです。東京のYWCAから、全国区に立った女性解放運動家、久布白落実(くぶしろ・おちみ)さんの応援要請があったためです。前年の衆院選で、女性国会議員が誕生したばかりでした。落選でしたが、選挙を手伝いながら、これが女性参政権なんだ、と心が躍りました。

 楽しい高校生活でした。でも、それだけではありません。被爆後に生きる意味を、懸命に探し求めてもいましたから。

 やけどで肉の塊のように変わり果てて死んだ姉とおい。私の背後で、生きたまま焼かれた同級生。雑魚場町(現広島市中区)で動員作業中に壊滅した学友たちは、死の淵で円陣を組み、賛美歌「主よみもとに近づかん」を歌いながら次々と息絶えたと知りました。生き延びた自分が、そのままの人生を過ごすことは、できなかった。

 思いを表す言葉を探す、旅のような日々でした。毎朝、独りで早い時間に登校し、宗教の先生たちに問いかけたのです。「神の愛というならば、なぜ広島をこんな目に遭わせるの」「良く生きるとは何だろう」。誠実に語り合ってくれました。

 ≪広島女学院と関係の深かった流川教会(中区)にも通い始めた≫

 そこで出会ったのが、人生の師となる谷本清牧師でした。広島駅などの路上で暮らす原爆孤児の救済に奔走し、「精神養子運動」を展開されていた。原爆を称賛するムードが支配していた投下国の米国へ40年代後半から出掛けては、被害の実態を訴えた人です。

 ある時、世界教会協議会の冊子にこんな一節を見つけ、心を打たれました。「平和とは、ただ戦争が存在しないというだけでない。すべての人に社会正義をもたらそうとする努力のプロセスである」。谷本先生がいつも言っていた、愛と行動の伴う信仰を決意したのです。17歳の誕生日を控えていた48年12月、流川教会で洗礼を受けました。

(2018年8月15日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <10> 女学院大時代

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